J・エドガー [イーストウッド]
『J・エドガー』、とても面白かった。アメリカの映画賞のニュースなんかであまり名前を聞かないのは、イーストウッドの監督作としても題材的にも不思議な気がしていて、評判があまりよろしくないのかなと思いつつ見に行ったんだけど、息もつかせぬくらい面白かった。
あまり話題になってなさそうなのは、たぶんこの種の題材として期待されるものとは語り口が違うせいなのかもしれない。いわゆる社会派の伝記物でアメリカ現代史の闇にメスを入れるもんだと思うと、オリバー・ストーンみたいなのを想像してしまいがちなんだけど、そうではなくてソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』のベルサイユ宮がFBIの執務室に取って代わったような感じじゃなかろか。この映画のフーバーは宝石とかお菓子の代わりに指紋とか盗聴テープを収集して、自身の執務室を世界に見立てている、そして、時間はずっと止まったまま。実際には回想とか入って、ずっと複雑な語りを紡いでるわけだが、大方そんなところを想像した。脚本家の寄与する部分も大きいと思う。
この執務室を横切る、フーバーを中心とした三人の主要人物がまた素晴らしいのだよね。若い頃から老年までをプリ夫さまたちが演じていて、それ相応に老けメイクして作り込んでいるのだが、ある意味では何も変わることなく何十年の月日が流れてしまっていることに、妙な感慨が込み上げる。正直老け演技として成功してるかどうか知らんが、映画として成功している。それから、イーストウッドは端役とかけっこういい加減だったりすることも多いのに、この映画ではそれが全然ない。どうでもよさそうなのが、不思議と存在感を持っていて、たとえばフーバー回想録の聞き取りをやってる若い局員たちも、いつもならクソみたいなのを配したりしそうなところに、不思議と印象に残る顔を置いている。
そんなふうにして、2時間強の上映時間があっという間に過ぎるわけだが、何かが完結したような気分に全くさせてくれないところが、あるいは映画賞に名前が挙がってこない一つの理由かも。
『ゴースト・プロトコル』のビカビカの絵を見た後だけに、しっかり陰影のつけられたものを見ると興奮してしまう。予告でやってたデビッド・フィンチャーと白夜の組み合わせも絶妙な気がするんだよな。見に行く時間があるかどうか。
ヒアアフター [イーストウッド]
『ヒアアフター』を見てそんなことを思いました。しかしもう一度よく思い出してみると、生徒の大半はお年寄りだったよな。とすると、ブライス・ダラス・ハワードみたいな娘さんとペアを組める望みは結局薄いのか。
映画の内容を初めて聞いたときに、どうしてイーストウッドがオカルト風のこの題材に興味を示したのか、腑に落ちないところがあったのだけど、死の世界を垣間見る、あるいは死から生還するといったようなことは、『奴らを高く吊るせ』以来イーストウッド自身が何度もやってきたことだと、見終わって思い出した。なんかわからんビジョンを見てしまうという点では、『タイトロープ』がそうだったし。ただ、それを自分の体じゃなく、若い役者たちを使ってやるとなった場合に、イーストウッドはきっと優しいのだろうなと、そんな気がしました。
インビクタス [イーストウッド]
イースドウッドの映画の中で今作ほど明朗なのは『スペースカウボーイ』以来ではないだろうか。とりわけ『ミスティックリバー』からというもの、一作一作が行き先の見えない暗闇の中を進んでくるかのようにイーストウッドの映画はスクリーンに映し出されていた。『グラントリノ』で自らを殺したことで、何か吹っ切れたとでもいうのだろうか。
そう、明朗な。あらゆるショットに笑みをこぼさずにはいられないほどに。しかし、いくつかの決定的なものを例外とすれば、お得意のギャグは抑制されていると言ってよい。例えば『ハートブレイクリッジ』のように、ここでもユニフォームが小道具としての役割を演じてはいるものの、それは明らかなギャグとして登場しているわけではない。だが、少年がユニフォームを拒絶するとき、またモーガン・フリーマンがキャップを受け取るときに込み上げてくる喜びは一体何だったのだろうか。
モーガン・フリーマンの素晴らしさは言うに及ばないと思う。早朝の散歩の歩きぶりを見ただけで魅了されない人はいないだろう。とはいえ、それもストーリーの展開からは想像できないほどに、目眩を呼ぶほどに緻密に織り上げられた作品の縦糸の一つに過ぎないだろう。身辺警護のスタッフたち、ユニフォームを拒んだ少年、女中、テレビリポーターなど、これらの横糸をイーストウッドほどに絶妙に組み込むことができる演出家が果たしているだろうか。
そしてこれほど巧みに織り上げられた映画の中に、それでもひとつの余白というか影を残しているところもまたイーストウッドならではである。それが何なのか言うことは差し控えておく。
ハリー・キャラハンになりそこねる [イーストウッド]
なぜかしかし予告編だけが残されている。
似ているかどうかはともかくとして、けっこういい線行っていると思うのは自分だけだろうか?
中止の理由は、製作会社内での揉め事らしい。想像するに、製作者の中にマニアがいて、イーストウッドはド変態だから、敵に殴られたり、犬におしっこを引っ掛けられたり、女に犯されたりすると、快楽ポイントが加算されてどんどん強くなるんじゃ!、などと主張し、上司から、チミ、そんなんじゃ全然死なへんやんか、と全うな指摘を受けると、いや、イーストウッドも死ぬのです、しかし、死んだらプリーチャーになって甦ります、プリーチャーは無敵です!などという議論が際限なく続き、埒が飽かなくなってしまったのではないだろうか。マニアが独立して、ゲーム『タイトロープ』を世に問う日は来るのだろうか?
次いでに、古いバージョンのゲーム『ダーティハリー』も紹介しておこう。オープニング以外にダーティハリーである理由を見つけるのは困難だと思うが。
グラントリノ [イーストウッド]
イーストウッドの作品の中でもとりわけシンプルな、むしろありきたりとすら言いたくなるようなスタイルで撮られているのが、本人が画面に登場し「うー」と唸るだけで、見ているこちらとしては心揺り動かされずにはいられないのはとても不思議だ。お得意のギャグなどもちりばめながら、映画はどこか不条理とも言いたくなるような飛躍をし、いつしか暗い暗い領域に突入してしまう。十分に予測できたはずの結末が、いざ目の前で現実のものとなったとき、嘘だろ、とつぶやき、海岸沿いを駆るグラントリノの光景をあってはならないショットであるかのように宙吊りにしたまま劇場を出た。
個人的なある最近の出来事に重ね合わせてしまうこともあり、『チェンジリング』のときにのように気安くもう一度見に行く気分にはならないかもしれない。この気分はいましばらくそっとしておきたい。
東の森に凄い爺様 [イーストウッド]
そやけど、「プティビュルタン」てゆうここで毎週発行される無料の情報紙もらってきたったら、表紙がえらい男前やったで、みんなにも見せたらなかんと思ったんやわ。ほれ、
ほんなら、また。
チェンジリング [イーストウッド]
BREEZY [イーストウッド]
いや、ウィリアム・ホールデンが素晴らしいのは言うまでもない。この起用に関してイーストウッドが何を考えていたか知りたいところだ。そして、ワンコがまたもや重要な役割を果たしている。私にとってはワンコの存在のみが、この不自然な二人の関係を正当化しているものと見えた。
ちなみに映画館にはスクリーンがなく、白壁に直射して上映された。別に特殊な上映会というわけじゃなく、普通の映画館に普通の料金を支払って見て来たのだけど。なんだかちょっと損をした気分だ。
カウボーイズ&カウガールズ [イーストウッド]
1月3日
年末に『センチメンタルアドベンチャー』がテレビで放送されているのを見ていたら涙が出てきた。急に『ブロンコビリー』も見たくなったので、ビデオを借りてくる。
前に見たのは十数年前で、当時はイーストウッドを西部劇とかアクションを軸に考えていたので、ウェスタンショーの一座の話を語った『ブロンコビリー』の細部はあまり覚えていなかったが、改めて見てみると素晴らしい映画だ。逃亡兵として逮捕された一座の若者を釈放させるために、デブシェリフに賄賂を渡しながら「あんたの方が俺より早撃ちだ」と言うことを強要されるシーン。一座の苦境を救うため列車強盗を試みるが、全く相手にされないシーン。これらの西部劇の偶像を換骨奪胎するシーンに深く心を動かされることはもちろんだが、それとは対照的に他愛もなく偶像を受け入れてしまう子供たちとイーストウッドとのからみが楽しい。車のドアの把手が拳銃になっているのが効いている。
正月2、3日はなぜか銭湯が午前中しか営業していない。午前中に起きることがまず困難なのだが、どうにかこうにか間に合った今日にしても一日中頭がボーッとしてしまった。
12月28日 悪い道 [イーストウッド]
年越しに備えて諸々の煩悩を打ち消すべくイーストウッドの『許されざる者』を見ようとレンタルビデオ屋に行くと、案の定既に貸し出し中であったので、まだ見ていなかった『ダーティファイター』シリーズを代わりに見ることにした。
イーストウッド作品というものをただ彼の監督作に限定して考えるべきではなく、マルパソプロの作品全体をイーストウッド作品としてみなすべきであるという持論があるにもかかわらず、表紙に兄貴がオランウータンと並んで写っているというだけで今までこの映画を敬遠していたのは自分の不徳のいたすところである。
われらが兄貴は今やハリウッドの良心として教育委員会の太鼓判すら押されかねない評判ではあるけど、兄貴の天才たる由縁は果敢に馬鹿に徹することができる点にある。事実、喧嘩とセックスの他何も語ろうとはしない『ダーティファイター』には知性のかけらもない。冒頭、とあるバーに入ってきたイーストウッドが隣の客のピーナッツを断りもなしに食べはじめる。怒った客がイーストウッドを「ピーナッツ泥棒」と罵るやいなや殴り合いが始まる。また、別のシーンではトラックの助手席に乗せたオランウータンを中年暴走族に馬鹿にされたイーストウッドが、トラックで執拗に暴走族を追い回す。挙げ句にはバイクを乗り捨てた暴走族を、何故だか道路清掃車のようなものに乗ってまで追いつめようとする。こんな感じで、ソンドラ・ロックの尻を追い回すという話を縦糸に、因縁をつけられては殴り合いをするという光景が止めどもなく繰り返される。そして、随所にイーストウッドの登場するシーンとはまるで関係なく、彼の母親たる腐れ婆さんが自動車の免許の取得試験に失敗するエピソードが差し挟まれる。映画が終わる頃には、イーストウッドの相棒として登場するオランウータンには作劇上の存在意義はまるでなかったことに誰しも気付くはずだ。
おそらく良識ある人物であれば、イーストウッドの監督作ではないからと言って、この映画における知性の欠如を看過するかもしれない。とはいえ、これほど知性の働きを感じさせることなく映画を終始させることは容易ではない。続編『ダーティファイター/怒りの鉄拳』の方は、笑いを狙う意図が随所に見えてその効果を半減させてしまっている。つまり、『ダーティファイター』は真の阿呆によってのみ作られうる驚くべき映画である。真の阿呆となりうるのは天才のみである。ちなみに『ダーティファイター』は合衆国においてイーストウッドの出演および監督作中最大のヒット作であるらしい。