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既知との遭遇

名前を知らないがために、頻繁に視界に入りつつもそれをそれとして識別することができないとか、意識の表層に留めることなく無意識下に沈潜させたままにしておいたそういうものが、あるときその名前を知って、それが知らず知らずのうちに身近に存在していたことに驚くということは、おそらく誰もに経験のあることだと思う。とくに草花とか虫などによくあることだ。

昨夜、『台風クラブ』を見始めて驚いた。何度も見ているはずのこの映画のタイトルクレジットに今年に入って覚えた伊達三郎の名前を見つけたからだ。まさかここにその名前が映るとは思わなかった、そういった場違いな登場に思えた。

伊達三郎とは、大映京都のほとんどの映画に登場する脇役俳優である。勝新や雷蔵の映画に必ずと言っていいほど登場し、悪役の腹心や敵の三下連中のとりまとめ役など、ぎりぎり役名がついているぐらいの役をよく演じている。知っている人には毎食の味噌汁のように当たり前の存在だが、映画を数多く見ている人でもこの名前を聞き慣れない人は多くいるようである。ただ、その顔はきっとどこかで見ていると思う。

この役者の顔がわたしの網膜に頻繁に映されたのは、18、19の頃が最初である(それ以前にも映っていた可能性は高い)。大映のプログラムピクチャーを大量に見ていた頃である。『座頭市』シリーズなどを見ていて、悪役連中に毎度同じような顔がいくつも出てくることに誰しも気付くと思う。18、19のわたしももちろん気付いていた。しかし、それらの顔の一つ一つをクレジットに現れる何十もの役者の名前と一致させることは難しい。いつも判で押したようなありきたりな役を演じているため、芝居そのものもあまり記憶には残っていない。顔は名付けられないまま、時の流れにまかせて忘却される。大映京都の映画を集中的に見る機会があると、再び顔を思い出しはするが、名前が与えられなければ同じ忘却のサイクルに再び入ってしまう。私の意識の下でその脇役俳優の顎の厳つい顔は、伊達三郎の名前を与えられないまま浮かんだり沈んだりしていた。

名前を知ったのは、だから今年に入ってからのことである。録画した大映の時代劇やテレビ時代劇(伊達三郎は、70年代以降はテレビ時代劇にも頻出する)を数多く見ながら、顎の厳つい顔がまたまた意識の表層に浮かび上がってきた。この機会にクレジットに現れたいくつもの名前をインターネットで画像検索した。そして、伊達三郎の名前がその顔を指し示していることをついに突き止めた。すると、わたしが思っていた以上に、伊達三郎がわたしの映画生活に蔓延っていることを発見した。二日と空けて、伊達三郎を見ない日はない。これまでも知らず知らずのうち何度もあの顔とすれ違っていたことは疑いない。以前、見に行く映画の悉くに山茶花究が出てきたことに驚愕したが、それをも凌ぐ蔓延具合である。わたしが今までに見た映画を出演俳優別に数えたとしたら、伊達三郎が断トツで一番多いのではないだろうか(その次はおそらく伊達三郎といつも一緒に登場する木村玄)。

しかし、いかに伊達三郎が数多くの映画に出演していると言っても、それは限られた時代の限られたジャンルでのことである。たまたま最近のわたしがそういう映画やテレビドラマを集中して見ていることも事実である。なので、そういう映画とはかけ離れた『台風クラブ』のクレジットに伊達三郎の名前を発見したことには、強い違和感を覚えた。あまりにも多くの伊達三郎出演作を録画・再生したために、わたしのレコーダーが自動的に伊達三郎の名前をクレジットに挿入するようになってしまったのではないかと、疑いさえした。もちろんレコーダーにはその機能は備わっていない。『台風クラブ』の中で伊達三郎は用務員のおじさんを演じていた。調べてみると相米作品には『雪の断章』、『光る女』にも出演している、言わば常連であった。それにしても不思議な感覚である。たとえるならば、田舎に住んでいた子供の頃、通学路でいつも犬の散歩をしているのを見かけたおじさんがいたとして、その素性をつい最近になって知った後、そのおじさんが実は自分が上京して大学生活を送っていた間によく通っていた蕎麦屋に勤めていて、気付かないうちに何度も顔を合わせていたことまで発覚したという感じだろうか。なんかわかりづらくしてしまったかもしれない。

話を変えよう。

薬師丸ひろ子が歌い始めた瞬間は、鳥肌が立った。たとえ自分が期待していた音痴を演じながら歌うという形でなかったにしろ(それに無理があることは承知している)、薬師丸ひろ子が歌えば全神経を震わせてくれることはわかりきったことだ。ところが、その歌に回想シーンとか余計な台詞(「プロだね」みたいな言わずもがなの)とかを混ぜ込んできたのは、まったく残念。歌と表情だけで演出できなかったのだろうか。これが、この枠のテレビドラマの限界なのかもしれない。これほどに連ドラを追っかけて見ることはおそらくもうないだろう。
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カステーラまみれ

なんだ、結局薬師丸ひろ子は歌うのか。
最近飛ばし飛ばしで見ている『あまちゃん』のことだけど、薬師丸ひろ子の歌声が聞けるという安堵感と、とは言いつつも決してその歌声が発せられるまでの展開に満足しているわけではないぞという天邪鬼を混ぜ合わせながら最終週のあらすじを見てみると、「鈴鹿は音痴を克服できていなかった」なんて書いてある。俄然興奮しないわけにはいかない。ということは、そのまんま歌ってしまう、というかそうゆう芝居をするかもしれないということだ。

正直なところ、鈴鹿ひろ美が事務所でリサイタルの提案をしてボイストレーニングとやらの成果がまるで反映されていない歌声を披露したショットで、音声を消す演出がされていたのが気に入らなかった。わざと音を外して歌うのはやっぱ難しいのかなとか、事務所からストップかかったりしてるのかなとか、勘繰っていた。しかし上のあらすじから想像するに、これは見せ場を温存しておくという選択だったのかもしれない。いずれにしてもこの演出は受け容れ難いものであったことに変わりないのだが、最終週への期待はいや増す。それとも、あんま期待しないで待ち受けた方がいいのか。とりあえず見逃さないようにしなければ。

『あまちゃん』から長崎旅行のことに話を持って行く。もう一ヶ月も前のことだ。いい加減ブログで書く賞味期限も過ぎてそうだが、まあ気にしない。前の記事で触れた長崎に行ったもう一つの理由のことだ。

鈴鹿ひろ美の歌声に限らず、舞台でもテレビでも具現化しづらいものは暗示によって表現するというのが常套である。そして、テレビ時代劇には共通して専ら暗示によって提示される場所がある。、それは大奥でもなければ、佐渡の坑道でもない。長崎である。なぜかと言えば、第一にセットを組むだけの予算がないからだろうが、景観を見せることもなくこれほど名前だけが連呼される土地はおそらく他にない。まだ見ていない『長崎犯科帳』なんかは非常に稀な例であって、これは近いうちに見たいと思ってる。

長崎が江戸時代において特殊な土地であったことは、わざわざここで言うまでもない。時代劇では「長崎帰り」の登場人物がちょくちょく登場するが、こいつらは江戸の庶民がまだ知らぬ文物に触れた特殊な連中である。ガンダム世界で言えば「土星帰り」のようなものだ。たとえば最近見たもののなかでは、『おらんだ左近事件帖』の主人公(高橋英樹)とか『暗闇仕留人』の石坂浩二なんかがそうである。この二人のように多くの「長崎帰り」は蘭学を修得している。その他にも役人や町人、有象無象などが長崎からドラマの舞台である江戸にやってきたり、そこからあちらに消えて行ったりする。「必殺」シリーズでは、『必殺仕置人』の最終回で解散した仕置人グループのうち、野川由美子と津坂匡章がその後長崎へ行き、『暗闇仕留人』開始とともに江戸でもの珍しい渡来品を路上で売りさばいているのを中村主水に見つかって、仕留人グループに合流する。長崎は時代劇にとって、言うならば舞台袖であり、想像力をめぐらせて様々な意味合いを生み出すことを可能にする便利な余白である。

便利なと言うのは、脚本家がなんか困っちゃったときにとりあえず「長崎」という記号を使っとけば、展開を好きなように変えることもできるということである。しかし、ほんとにそうなのだろうか。長崎や九州に住む人はもちろんのこと、およそ日本人なら長崎ぐらい行ったことがあるはずで、その地名を耳にすればある程度の実体を伴ったイメージを喚起することができるのではないだろうか。そして、脚本家たちの中にはそれを前提としてその地名を書き込んでいる人もいるのかもしれない。「長崎」という言葉の響きとともに、修学旅行の寝付けない夜に級友たちとカステーラを投げつけ合った思い出や、平賀源内が留学時代に愛したと伝えられるカステーラの味や、シーボルトが入れあげた芸者が襟足に漂わせていたというカステーラの匂いなどが、渾然一体となって沸き上って来る感覚をお茶の間の視聴者たちは共有しているのではないか。長崎に行ったことがないわたしはそれを共有できていないことに気付いて、慄然とした。

『失われたときを求めて』を読むなら、まずマドレーヌを紅茶に浸して味わうことから始めよ、とは何度か聞かされた言葉だ。では時代劇を見るなら、まずは長崎に行っておくべきだろう、そう考えた。これがアントニオ・ロペス展の他に、金もないのに長崎まで出かけた理由である。

予算的に滞在期間が限定されるので、見たいところは予めガイドブックで場所と開いてる時間を確認して、修学旅行のように厳密にスケジュールを組んだ。列挙しておくと、初日は午後3時頃に到着。ホテルにチェックインした後、出島とアントニオ・ロペス展を見て、中華街で皿うどんを食す。予定通りに遂行。

二日目。朝、坂を上って二十六聖人記念館。墓地の中を上ったり下りたりして福済寺、聖福寺。坂と酷暑は充分計算に入れていたけど、この辺りですでにボロ雑巾のような気分になり、想定していた旅の気分と微妙にズレが生じてきた。歴史文化博物館を見て、当地でトルコライスを昼ご飯にした後、予定外の諏訪神社まで行ったが階段を上って本殿まで見に行く気力は絞り出せず。階段を下って中島川に沿って歩いて、眼鏡橋を渡り、汗を垂れ流して崇福寺。丸山界隈に足を引きずって行ってから、喫茶店で小1時間休憩して息を少しだけ整える。夕方から大浦天主堂、それからグラバー園。オランダ坂を通って行くことを考えていたが、本当にそうしていたら坂の途中で息絶えていたかもしれない。迂回した。グラバー園で日が暮れて、おっさん一人夜景を前に黄昏れる。予定していたチャンポンを胃が受け付けそうな気配はもはやなく、バーでビール飲んで、帰りがけにコンビニで買ったアイスクリームをホテルの自室で食べるのが精一杯だった。

三日目は土砂降りで始まった。天気予報は、一週間前から目を配っていた。なのでこの日から天気が崩れることは予想していたが、ちょっと想定外の降り方になった。しかし、雨は次第にやんで特にスケジュールに支障は生じなかった。が、それと同時に酷暑が和らぐこともなく、Tシャツは再び汗で重くなった。この日の中心となる目的地は軍艦島で、それについては前に書いた。その後午後4時の出発までの間、前日までに見逃した場所に行くことにしてあって、結局唐人居留地の遺構巡りをした。再び坂を上らなければならなかった。昼飯に詰め込んだチャンポンが汗と一緒に吹き出そうになった。坂を下りてから、まだ時間に余裕はあったものの、通りがけのバスセンターでエアコンにあたってチャンポンを宥めた。

ざっとこんな具合であった。詳しくは書かないと思いつつ、長くなってしまった。
汗水たらして歩き回った甲斐あって町の地勢は何となくつかめた。この先長崎の名前を聞くたびに、びちょびちょになって坂道を上り下りしたこの夏の数日間のことを思い出すだろう。カステーラは結局食べなかったし、土産にも買わなかった。だいいち好きじゃない。桃を象った砂糖菓子を乗っけたカステーラは、それは見た目にはきれいだが、口の中に入れた感触や、くどい甘さを想像すると、勘弁してと思う。ほんと言うと、皿うどんもチャンポンも好きではない。別に嫌いじゃないけど、どちらも敢えてあの麺を使わなくてもいいような気がする。

今回特に行ってよかったと思うのは、切支丹関連の施設である。二十六聖人記念館なんかは表の記念碑だけを見て帰る人もいるかもしれないが、是非裏にある記念館も訪れてもらいたい。中浦ジュリアンの手紙とか他ではあまり目にすることができないような資料が豊富にあって、日本史の教科書的な見方がきっと変わる。大浦天主堂も、天主堂だけでなく横にある資料館も訪ねることをお勧めする。ここで明治の初期に長崎に赴任したド・ロ(de Rotz)というフランス人神父が日本人絵師に彫らせた布教のための版画を見て衝撃を覚えた。全体としてメキシコの壁画に近いものを感じるが、キリスト教の世界観のイメージと日本土着の様式が混じり合って凄いことになっている。これは美術史的に注目されてないのかどうか知らないが、インターネットで探しても画像はそんなに出て来ない。撮影禁止になってたか記憶してないけど、写真を撮って来なかったことを後悔している。カメラも汗でベトベトになっていて、触る気が失せていた。今度長崎に行く機会があれば、五島列島とド・ロ神父関連のところ中心に回りたいと思っている。
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カステーラの方へ

特に何もすることがない。頭はぼーっとしていて、部屋のすぐ前では親が頼んだ何だか目的のわからない工事が進行中で、出入りが不便なうえに五月蝿い。この機会に長崎に行ったときのことを書いてみようと思う。観光案内をするつもりもないし、気に入った写真も別のところに貼り付けておいたので、どうしようかと思っている。ただちょっと、頭を働かせるために書いてみる。

長崎に行ったのは先月下旬のこと。七月ぐらいにテレビでアントニオ・ロペス展の紹介をしているのを見て、これは本物を見てみたいという衝動に突き動かされた。友達もブログで讃美していた。調べてみると、東京での展示はすでに終わっていて、後は長崎、岩手に巡回することになっている。岩手にそそられないわけではなかったのだが、先々の予定がわからないし、当今のほほんとその辺りへ出かけると『あまちゃん』を見て来たのだと思われそうなのが怖くて、すでに開催中の長崎に、つまり生まれて初めて九州へ行く計画を練ってみた。岩手にはいつか啄木を歌唱しながら出かけてみたい。

最初は少なくとも3泊して、できれば五島列島にも行ってみたいなあ、などと甘い空想をしていた。しかし、予算を組んでみるとそんな夢は到底実現できそうもないことがわかった。第一わたしには今年に入ってから収入がなく、さらに六月に止むを得ない事情からフランスに行ってたくさんのお金が飛んでいった。貯金は一年前の半分ぐらいになっている。国内だからと言って、東海地方から九州まで出かけるとなると、交通費も馬鹿にならない。四年前にも職業上の理由で熊本に行く計画を立てたこともあったが、金がなくて諦めた。旅行会社が提供するツアーだといろいろお徳になるのではと期待して調べてもみた。基本料金3泊3万円台からのが多く見つかったので申し込みを試みたが、こういうのは通常二人以上でないと受け付けていないことを知った。計画は頓挫し続けた。

新幹線の割引をいろいろ調べてみた。高速バスという選択肢もあったが、長崎まではさすがに辛いと思った。ほぼ20年ぶりに青春18きっぷを利用することも考えた。自由に使える時間が今のわたしにはたんまりある。しかし、その時間を好き放題に使うことに変な罪悪感を感じてしまうのがわたしの悲しい性であった。それに、旅行が長引けば宿泊費も食費も嵩むことになる。結局、新幹線の往復を何日か前までに予約すると割引になる券を見つけたので、それを購入することにした。名古屋ー長崎で3万5000円(普通に買うと片道2万くらい)。「のぞみ」を博多で下りて、在来線の特急「かもめ」で長崎に出る。時間だと都合6時間ぐらいかかる。ちなみに、この券はお盆や正月の間は使えない。予約できるのは8月21日以降の便だった。21日に出発することにした。

3万5000円というと、ちゃんとお勤めをしている人ならば、会社に行って午前中にチョコチョコッとクリックなんかして稼ぐ金額かもしれない。だが、自分には大きな出費となる。旅行の期間は3泊から2泊に短縮することになった。宿泊は、ネットで1泊4000円くらいのビジネスホテルを予約した。駅から遠くなくて、美術館に近いところ。それ自体これと言った特徴もないホテルだったが、観光地巡りには便もよくて、たまたま窓から港を臨める側の部屋もあてがってもらえた。全く的確な選択をしたものだと思う。

ここで空想段階にあった旅行がどうにか現実味を帯びて来た。出発10日ほど前のことである。ガイドブックを購入し、アントニオ・ロペス展以外の予定を考えることにした。企画を練り始めた段階で思ったのは、せっかく長崎に行くのなら船に乗って島に出かけたいということだった。そういうわけで五島列島を思い浮かべたのだが、どうやら五島列島は自分が考えていた以上に広く、ちゃんと見るにはここだけで何日も要することがわかった。そこで、昨今のブームのせいもあって敬遠したい気もないわけではなかったのだけど、軍艦島に行くことにした。軍艦島には幾つかの会社がツアーを用意していて、予約が必要である。自分は軍艦島コンシエルジュというところに予約した。上陸料込みで4200円だった。

旅行中のできごとをつらつら書く意図はないので先にこのツアーに触れておくと、結果として島には上陸できなかった。大陸に過ぎ去った台風が東シナ海に残していった高波の影響でフェリーが接岸することができなかったのである。いや、正確には接岸はした。上下に大きく揺れる船体から船員が桟橋の鉄環に間一髪でロープを通し、シーソーのように揺れるタラップを渡って何人かの乗客が上陸した。ところが、順番を待っていた乗客がその光景を見てパニックになり、中には「わたし無理!!」と叫び出す人もいる始末。船体が桟橋に激しく打ち付けられて飛び散る波しぶきの間に間に船員たちの怒号が飛び交い、そこに幼子が泣き喚く声が加わった。船内は阿鼻叫喚の場面に転じた。上陸は中止となり、すでに上陸していた人たちを辛うじて回収して、フェリーは離岸した。波が高くて接岸できないというのは、よくあることらしい。この場合は上陸料300円が返金される。ただ実際には600円くらいの返金があって、詳しく聞いていないが、これは燃料費だったのかもしれない。上陸できなかったのは残念だったが、上陸したとしても見られる範囲はかなり限られているし、島の過酷な生活の一面を体験できたのは逆に運がよかったのかもしれない。島にかつて労働者として住んでいた方がガイドに付いてくれて、貴重な話もたくさん聞くことができた。旅行最終日のことである。

予算のことに話を戻すと、旅行前にこれで合わせて4万7000円ほどが費やされることが確定したわけだ。クレジットカードで支払ったこの出費は来月口座からしょっぴかれる運命にある。8月21日の朝、数ヶ月後に消えるこの金の重みを噛み締めていたかどうかはもう覚えていないが、わたしは新幹線に乗るため名古屋へ出発した。

博多までの風景はだいたい予期していたものが続く。だが、「かもめ」に乗り換えて佐賀の平野を突き進むとだんだんと様子が変わってくる。遠くに見慣れない山が姿を現して、家々が妙に豪壮な瓦屋根を乗せている。田園を横切る川は泥で濁っているか、むしろ泥が流れている。しばらくしたら有明海が車窓に見えた。まず話に聞いていたように干潟、あるいは泥っぽい浅瀬が目に入って来たが、次第に海が開けてくると、夏の真っ青な空と入道雲の下に鎮座する対岸の山を背景にして、海の広さが一層際立って、見ているこちらの頭の中までぽっかりと空っぽにするようだった。電車が進んでいる方角がわからないので、対岸だと思って見ていたのは南にある雲仙だったかもしれない。

子供の頃日本地図をソラで書くときにどうしても迷うのが長崎県だった。海の入り込み方というか半島の突き出し方が複雑で端っこの方で何だかわけが分からなくなる。有明海を見ていたら、そのわけの分からない端っこに突っ込みつつあるという感慨が込み上げて来た。二年前に小樽に向かう列車の中から宵の暗い日本海の波立ちを見たときも似たような気持ちになった。外国に住んでたことがあるといっても列島のほぼ真ん中らへんで生まれ育ったわたしは、その端っこの方まで来ると何となく怖いような寂しいな、足元がぞわぞわするような変な気分になる。この気分は嫌いではない。かつて長崎奉行に任命されたお偉いさんや蘭学を学びに来た連中もまた、道中この光景を見たのだろうか。長崎街道は反対の大村湾沿いだから見ていないかもしれない。電車からは大村湾は見なかった。

トンネルを抜けて午後3時前、長崎に到着。どん詰まりである。ホテルにチェックインして早速出島に出かけた。美術館は夜8時まで開いているので、その後にした。感想を詳しく書くことはしないが、絵はやはり実際の大きさで見ないといけないことを改めて確認した。

市内観光のことも詳しく書くつもりはない。ただ長崎に来たもう一つの理由について、気が向いたら新たに記事を起こそうと思う。旅行中は三日目の朝に土砂降りが来た他は殺人的な熱さが続き、坂道の上り下りがそれに加わり、しばらく記憶にないぐらいの汗をかいた。とてもじゃないが、ちゃんぽんを食える状態ではなかった。でも、食った。
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おしどり右京捕物車

そう言えば『パシフィック・リム』のロボットは、操縦者が二人である必要があったのだろうか。ケチのつけついでに言ってるのだけど、お話の上では確かにその必要性を説明しつつも、劇の展開の上では菊地凛子の回想を引き出す以上の役割はそこにはなかったように思う。トラウマが呼び出されるアクシデントも飽くまでテスト段階で起こったものであり、戦闘中に操縦者の一人が人事不省に陥ったり、敵に寝返ってしまったために、ロボットがまるでチグハグな作動を始めるとか、合体が解除されてしまうといった、日本のロボットアニメでよくある劇的展開の核心に関わるような複数性では決してなかった。断っておくが、『パシフィック・リム』はまあ面白いと思う。

というようなことを『おしどり右京捕物車』全26話をDVDで見終わって考えた。

この時代劇については前にもちょっとだけ書いた。『子連れ狼』であれば大五郎が乗るべきところの乳母車に拝一刀が乗っているようなもので、妻・ジュディ・オングが押す手押し車に中村敦夫が乗って戦う1974年放送の時代劇である。「北町の虎」と恐れられる与力・神谷右京は、遠藤太津朗率いる犯罪集団の謀略がために下半身不随となり、奉行所もクビになってしまう。一時は寺子屋を開いて妻はなと二人で静かな生活を送る決意をしたものの、自らの性に抗うことはできず不具となった体を手押し車に乗せて悪に立ち向かう、とまあ概略すればこんな感じの話で、そろそろアイデアの出尽くした感のあるテレビ時代劇に奇抜さを求めようとした末に制作された印象は拭えない(元は「必殺」シリーズとして構想された)。しかしながら、このアイデアは単なる奇抜さに留まることなく、劇を展開するための力として見事に機能している。

チャンバラもののヒーローに不具者が多いことはよく知られている。とは言っても、多くのヒーローは自分一人で、不具者であるゆえに常人以上の力を得て、難局を切り抜けることができる。神谷右京も人並みではない。並々ならぬ執念で鞭の術を鍛錬して、手の届かない距離にある敵を圧倒しもすれば、にわか雨が降れば枕頭から庭の洗濯物も取り込んでみせる。しかし、一人きりになると移動することだけはどうやっても無力である。細君がいなければ全く他愛のない肉塊にすぎないのであり、悪人どもになす術無く手押し車ごと谷に突き落とされたり、拉致されたりすることもある。

もっとも手押し車を押すことができるのは、妻だけではない。妻がいないときには居候している寺の見習い坊主その他の連中が右京の悪人追跡の手助けをして車を押す。しかし、緊迫した戦闘の中で右京の意図と完全に同調して車を操ることができるのは、はなだけである。なので、劇の展開としては悪人どもの奸策から離れ離れになって(多くの場合妻が拉致されている)戦闘力の低下した夫婦が、クライマックスにおいて再会し爆発的な立ち回りで事件を解決し、見るものの胸を熱くするというのが基本のパターンとなる。

正直なところ、この展開もシリーズ中盤にはマンネリズムに陥っているように思う。それを救っているのは妻はなの人物造形とそれを演じるジュディ・オングである。とりあえずは無口で頑固な夫に健気に尽くす妻ではあるが、その実天真爛漫すぎるこの人物は、手押し車を押しながら道端に可愛いお花を見つければ一人では前に進むこともできない夫を放り出してお花に夢中になってしまったりする。結果、夫右京が窮地に陥ることもしばしばであり、拉致されたり穴に落っこちて行方不明になることさえある。夫に従順であるかに見えて、言いたいことが口から漏れるのを塞ぐことのできないような人物でもあり、「おしどり」と謳いつつもこの夫婦間に決して齟齬がないわけではないことを匂わせて劇に緊張をもたらしている。そのような妻はなを演じるジュディ・オングの素晴らしさに言及されることが少ないのは、不当な気がする。どちらかというとビラビラの衣装を広げて歌を歌う人というイメージが先行して、映画出演も数少ないので役者としての印象がわたしには薄かった人だけど、テレビ時代劇を頻繁に見るようになって彼女の魅力に取り憑かれつつある。

さて、各回の展開が次第にワンパターン化してしまうのはどのシリーズもなかなか避けえない流れではあるんだけど、『おしどり右京捕物車』の最後の二話については特筆しておいたほうがいい。新奇なアイデアが売りのシリーズではあるのだが、主題を組み尽くしてシリーズを終わらせようという製作者たちの意欲がそこには感じられる。第25話においてはとりわけ解決すべき事件が持ち上がるわけでもなく、悪事を企む犯罪集団も登場しない。妻はなが質屋に預けた形見の簪が質屋の過失からオフュルスの首飾りさながらに人手を転々とする。簪を手にするのは妻に騙され裏切られた男たちである。夫婦は簪の跡を追って、不幸な夫婦たちの生き様に立ち会うだけである。あまりに不吉なエピソードが最終話を先導するというわけである。

そして、最終話。はなが不貞を働くわけではないが、夫婦間の齟齬が彼女の一つの行動となって現れる。これ以上のことは言うまい。ただ書いておきたいのは、このエピソードの脚本は、『ウルトラマン』の異色エピソードなどで御馴染みの佐々木守が書いていることである。本シリーズ初登板であり、必殺シリーズにも確か参加していない佐々木守がなぜこの最終話の脚本を任されたのかは全然知らないが、この選択は製作者たちが時代劇によくある形式的なだけの完結を本シリーズに望んでいなかったことから来ているのかもしれない。最終話はまさしくシリーズの主題を汲み尽くしていると言っていい。『おしどり右京』を見始めて途中で飽きてきても、最終二話だけは見ることをお勧めする。

次に見たいのは『長崎犯科帳』かな。ところで『あまちゃん』、今や惰性で見ているけど、どうしようもなくつまらなくなってしまった。後は震災をどう見せるのかという点が唯一の関心。
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パシフィック・リム

『パシフィック・リム』見た、2D字幕版を1,000円で。最初は3Dで見たいと思ってたけど、田舎の3Dは吹き替えしかやらないし、今年に入ってから収入が絶たれているので最も安く見られる手段を選んだ。ま、正解だったと思う。期待していた通りには面白かったけど、自分には1,000円以上払いたくなるものでもなかった。

世間的には、いや少なくとも数人の友人は大絶賛しているみたい。そうするのもわからなくはない。でも、そこに敢えてケチをつけてみる。確かに、中盤までに手に汗握ることは何度もあった。なかでも香港での大格闘は息を呑んだ。だけど、それに比べるとクライマックスはあまりに味気ない。もうちょっとアイデア出なかったのかと、惜しまれる。怪獣映画ということだと、この前DVDで見た『クローバーフィールド』の方がずっと興奮の度合いはデカかった。

そしてこの映画の最大のケチは、菊地凛子。と言っても、菊地凛子自体の女優としての資質がどうこうということではない。そうではなくて、脚本や演出による人物造形や、もっと言えば、それ以前の問題。つまり、欧米人が東洋人女性に対して持つ典型的なイメージのつまらなさのこと。その典型的なイメージがどういうものであるかは、わざわざここで書くつもりはない。そもそも菊地凛子自身がそのイメージに適った女優でもないと思う。わたしが見たことのある限りでこの女優の最良の役は『モテキ』のヤンママだけど、『モテキ』で実に活き活きしていたこの女優を陳腐な役柄とメーキャップに押し込め、また女優自身がそこに自らを押し込んだままにしたのは、罪だと言わざるをえない。

たぶん菊地凛子がミスキャストなのだ。海外では全く無名だと思われる子役の何とかちゃんをキャスティングするくらいなら、製作者たちは日本の役者についてもっとちゃんと調査をして『カーネーション』のお姉ちゃんを配役すべきだったんではないか。あのお姉ちゃんが関西弁で怒鳴りながら怪獣をどつき回すところを見たかった、でもって黒人司令官と不倫してるくらいがわたしには一番面白いように思うのだけど。
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記憶されなかった潮騒のメモリー

それはないやろ。つまり、きょんきょんが薬師丸ひろ子の歌を吹き替えをするなんてありえんやろ、ということ。先週から毎日そんなことを思っている。

『あまちゃん』は主人公が潜水科みたいなのに入った頃から見始めて、五月末ぐらいから毎日見るようになった。このシリーズは土曜日にも放送されていることもとうとう学習した(『カーネーション』のときはちゃんと追ってるつもりが、なんか話が飛ぶなと思ってた)。つまりは楽しんで見ているわけで、主人公の女の子も面白いと思っている。

このテレビドラマに関心を寄せる要素の一つ、それも大きなやつなんだけど、それは歌。きょんきょんが歌う歌わないといった話になった頃から俄然興味が高まった。特にきょんきょんが好きなわけでもないし、劇中で歌われた『潮騒のメモリー』なる歌は正直しょうもない歌だと思った(とりわけ80年代歌謡曲のパロディを寄せ集めただけの歌詞の喚起力のなさ)が、劇中歌自体の出来よりも気になるのは劇の中で歌がどのように使われて、それがどのように演出されるかということである。で、いろいろと期待しながら見ていたわけだが、こと『潮騒のメモリー』に関しては歌うタイミングはまあいいとしても、目を見張るような演出で使われた記憶はない(先週主人公がヤンキー化した相方と和解する過程のどこかで歌わせるべきじゃなかったのか、いやそもそも劇の展開上ここで二人を和解させない方が面白くなったんじゃないか、まあそれは知らんけど)。

ドラマに対する期待が天文学的に高まったのは、薬師丸ひろ子の出演を知ったときである。主要登場人物たちがこれだけ歌うのだから、当然歌姫さまにも劇中で歌う機会があるのだろうと考えた。その期待感に促されて、フランス行ってる間も全部録画しておいたのだ。そしたらこのありさまである。ドラマに対する興味の八割型が飛び去った。確かに吹き替えをされているのは薬師丸ひろ子本人ではなく、歌う薬師丸の絵にきょんきょんの歌が被るなんていう無茶なことは今のところはない。しかし、このいかにも無理のある設定(歌を重視するなら、二人の役割を逆転させて然るべき)のために劇の広がりが殺されてしまったような気がしてならない。劇中で音痴にされてしまった薬師丸がその美声を披露する展開は恐ろしく期待できない。それとも、音痴の役を演じつつも歌ってしまうなどという離れ業をやってのけてくれるのだろうか。ラストシーンではあらゆる設定を無視して、津波に流された小舟の上で『カスパの女』を歌っちゃったりするんだろうか。まさかね。

ともかく能年ちゃんが面白いから見続けるだろうけど、熱心に毎日話を追うよりも一日おきぐらいで見るのがちょうどよいのかも。
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リアルのリアル [映画]

先週、黒沢清の『リアル〜完全なる首長竜の日〜』を見た。

『リアル』のことを話す前に『贖罪』について。今月フランスに滞在していた間に『贖罪』の海外上映用に再編集されたやつを見ることができた。日本版は見ていない。

『トウキョウソナタ』の後何年もの間、劇場用映画の企画が流れ続けた末に黒沢清が引き受けたというテレビシリーズの『贖罪』であるが、20年ほどは新作が公開されるごとに必ず見に行っているこの監督の仕事の中でも並外れて新鮮なものを目にしたように思った。端的に言えば、黒沢清の映画でかつて見たことない色んな女性像をこの『贖罪』は映している。もちろんこれは、自分は読んではいないが、原作に負うところが大きいと思う。五つのエピソードのそれぞれはまったく異なる強い個性を持った女性を主人公にしている。しかし、黒沢清があれほどに女優たちを活かした演出をしたのは正直今まで見た記憶がない。第一話の蒼井優はだいたい予想どおりである。それが第二話の小池栄子にいたって、新たな黒沢清の映画の中に足を踏み入れた気分になる。ちなみに劇場版は二本に別れており、ここまでが前篇である。後半を見たのは二日後の移動日で、予約したTGVに間に合わない危険を感じつつも、見に行かないという選択肢は自分にはすでになかった。そして、第三話はこのシリーズの中でも最も大きな衝撃を受けた。全ては安藤サクラの存在である。この奥田瑛二の娘さんの芝居を見たのはたぶん初めてだったと思うが、黒沢清の演出の中にものすごく異質なものが飛び込んできた気がした。演出として意図されたものだったのか、結果としてそうなってしまったものなのか知らないけれど、安藤サクラの芝居がこの監督の映画の中に新しい枠取りを要請しているようだった。他方、シリーズ中最も新鮮味を欠いたのは小泉今日子が中心となる解決篇の第五話で、話としてさほど面白い結末でなかったというのもあるし、キョンキョン自体がすでに黒沢清のリズムに順応してしまっているというのもあるかもしれない。すんなりフレームに収まってしまうのは演出の仕事としては楽だろうが、やはりつまらない。

では、『リアル』はどうだったか。『贖罪』において新たな役者の見せ方を開拓したかに見えた黒沢清の映画ではあったが、『リアル』では話を導く主演の二人になんの関心も持つことができなかった。

映画が始まってしばらくして頭に浮かんだのは、オレはこいつらがどうなろうと構わないということ。主人公の二人が、昏睡していようが、意識を取り戻そうが、そのまま落命してしまおうが、そんなことはオレには全く興味がないと思った。こんな風に思わせたのはひょっとしたら、二人を演じる役者、顎が突き刺さりそうで痛々しい女優さんと目だけに異様な力が籠った男優の芝居の不味さのせいかもしれない。ただ、わたしはこの役者たちを他でちゃんと見たことがないから何とも言えない。あるいは、そもそも原作の話がすでにつまらないのかもしれない。これも読んでいないからわたしは何とも言えない。しかし後で調べたところでは、原作が面白いかどうかはわからないが、おそらくはこの興味の持てなさの原因は映画化の構想の段階もしくは脚本化の段階にあるんじゃないかと思った。というのも、映画の七割がたは原作を改変しているという。特に主人公二人の関係を姉弟から恋人同士に変えているのは、話全体に大きな変化をもたらしているのではないだろうか。

物語そのものというよりもそれが展開される環境とか設定の問題。好き合っていた幼馴染みが学生時代に再会して、若くして漫画家として成功を収め、トウキョウと思しき大都会を見下ろすおしゃれな装飾品なども備えた高級マンションに一緒に暮らしていた。いったいこのマンションの値段あるいは賃貸料は幾らくらいするのだろう。二十代にしてこんなマンションに住むためには、漫画家としてかなりの成功をすでに収めていることだろう。しかし、室内の様子は多忙な漫画家のそれとは見えないほどすっきり片付いている。それではこの人物は、親がかなりの資産家で、一部の熱心なファンのみに支持される漫画を気ままに描いていてよいような立場にあるというわけか。確かにそんな気もしないではない。漫画家は一年前に昏睡状態に陥っており収入は絶たれているにもかかわらず、マンションにはそんな経済事情が影を落としているようにも見えない。あまつさえ、この漫画家は「センシング」と呼ばれるえらく金のかかりそうな治療を何度となく受けることさえできるのだ。見た感じ、この治療の費用は一回につき何十万円といったところだろう。保険は利くのだろうか。それとも大学病院の実験目的か何かで、治療費は免除されているということなのかもしれない。『リアル』はその題名にも関わらず、こうした現実的問題について全く言及しようとはしない。その理由は明瞭である。これは意識下で進行している出来事なのであり、現実とは似て非なる世界のことだからである。それにしても、である。それにしても、意識下において、あるいは夢の世界において、この映画の主人公たちは好き好き大好きな恋人のことだけを考えていればいいほどにお気楽な身分であり、昏睡したいだけ昏睡していても、せいぜい熱心な漫画のファンをヤキモキさせるだけである。二人の意識に落ちる唯一の影はいえば、南方の離れ小島で過ごした少年時代の切ない思い出だけであり、それでさえ首長竜という幻想に変化させて海に放てば丸く収まるたぐいのものである。こんな主人公たちがどうなろうと知ったこっちゃない。

『リアル』が面白さを欠いているというわけではない。特に前半部には黒沢清らしい不安を誘う繊細な演出がある。紋切り型のホラー描写のことではない。サイコパス漫画のグロ描写が意識下に具現されるとか、そんなのもどうでもいい。そういうのではなくて、たとえば貸し倉庫の空調の音とか明滅する蛍光灯である。この映画に自分がリアルなものを認められるのは、そこだけである。

ほとんどの映像が意識下のものとして説明されうるこの映画はそもそも、あの途方もない傑作『回路』を裏返して意識という名のフィクション化された枠組みをひっかぶせただけなんではないか。黒沢清の映画が意識の外の現実とか意識の内とかそんなことを今になって気にする必要があるとも思えないのだが、そうでもして辻褄を合わせとかないと誰も金を出してくれないのが現実というわけなんだろうか。だとするならば、それは悲しい現実である。
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鬱血、うぐいす、桃源郷

虚脱。この二週間はまさにそういう状態。ブログを書くだけの時間はいくらでもあったけれども、言葉が枯渇していた。あるいは、この虚脱を書き取るための言葉がなかっただけかもしれない。大半の時間は録りためてあった映画を見ていたら過ぎて行った。『兵隊やくざ』シリーズも初めて通しで見た。

少なくとも5年越し、多く見積もれば8年越し、いやそれ以上の年月を費やしたとも言える作業は終わった。開放感ではない。完全に解放されるためには六月を待たねばならず、そのための手続きをだるい四肢を鼓舞してはちまちまと進めている。上海に7時間だという。終結を待たずして上海の宵闇にこの身を霧消させてしまいたい。しかし仮に目的の地に赴いたとして、そこに自分が期待している開放が得られるのだろうか。

金ばかりが羽をつけて飛んで行く。いったいこの金が自分に何の見返りをもたらしてくれるのだろう。五感を甘く刺激して恍惚の境に私を導いてくれはしないことは確かである。そして懐に転がり込んでくる金の流れはと言えば、年の初めから途絶えているのだ。

そろそろいくつかの流れ、頭の中の流れや血流を整序して方向付けていかないとあかんな。
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ここんところベスト [映画]

長い間取り組んできた作業が一段落した。まだ細かいことが残っているが、それも今月中には決着を付けてしまいたいと思ってる。

このふた月の間、そんなふうに仕事もしないで家に籠っている一方で録画しておいた映画なんかもちょろちょろ見たりしていたけれでも、作業が一段落したところで堰を切ったように映画への欲求が湧いてきて、録りためておいたのや借りてきたのやらを見るペースが一時的に上がった。そこで、特に新しい記事を書くための面白いネタもなにもないので、この一週間に見た映画を順位づけしてみる。

年間ベストとかそういった類いのことは、しばらく考えたこともないし、正直どうでもいいとは思ってる。ただ、たとえば宇宙空間に飛ばされてそこで猿のように一年間ほど勉強をし続けなければならない、携行を許される映画は3本だけ、なんていう理不尽な命令が上級機関より下されたときに即座に決断をできるような準備だけはしておきたい。昔見た映画なんかはもう記憶がぼろぼろになっていて、選択を誤りかねない。そして、ひと月目が終わる頃には発狂して、宇宙船が外宇宙に向けて軌道をずらし続けていることも気付かないまま、身も心も永久に暗闇に漂うことだろう。そうならないための訓練である。

映画は10本。ほとんどはよく知られた映画である。久しぶりに見るいわゆる名作もあれば、初めて見る映画も含まれている。各映画に一言コメントを付ける。10位から。

10位『皇帝のいない八月』(山本薩夫)
初めて見た。クーデターが計画され、元自衛官の渡瀬恒彦が博多から東京へ向かう寝台特急を乗っ取る。列車という映画との親和性がものすごく高い乗り物が全然面白く撮れていない。

9位『ファイトクラブ』(D・フィンチャ)
みなさんはすでに見てると思うが、自分は初めて。評判がとてもよいのが不思議なくらいに楽しめなかった。心理現象を視覚化して物語の中で展開する場合、少しでも腑に落ちないと完全に白けてしまう。『インセプション』もそうだった。それを吹っ飛ばすほどの面白さがあれば別だけど、それもなかった。ここまでの2本は再度見たいと言う気は起こらない。

8位『33号車応答せよ』(谷口千吉)
池部良と志村喬のコンビがクリスマスイブの東京をパトカーで警邏。志村喬をもっと活かせたんじゃないかな。モーガン・フリーマンと血縁関係はないんだっけ?ここから次の映画までは数字以上の隔たりがあると思ってほしい。

7位『しとやかな獣』(川島雄三)
もちろん傑作(あとは全部傑作)。しかし、川島雄三の傑作群の中では個人的には昔から世人ほどには好きではない。怪物ぞろいの役者陣がまだまだ暴れ足りない感じがしてしまう。

6位『乱れ雲』(成瀬巳喜男)
成瀬のカラー映画の中ではベストだと思う。ただ何度も見ているといい加減加山雄三に飽きてしまう。後で言及する成瀬映画の長谷川一夫と比べるとその違いは歴然となる。司葉子は『33号車応答せよ』に登場する若い方の葉子を選ぶけど、『乱れ雲』での彼女の視線・表情の移り変わりは全く感動的。

5位『東海道四谷怪談』(中川信夫)
『四谷怪談』映画の中であれば2位か3位にする。1位は加藤泰のやつ。ただ記憶はもう消えかけている。中川信夫のはもちろん大傑作なわけだけど、あまりに完成されてしまっているというか、崇高すぎるところが、も一つ愛おしさを掻き立てない。これと三隅版(長谷川一夫)が競作であったことは最近知った。三隅版とこっちとどっちを2位にするか迷う(どっちでもええけど)。一度『四谷怪談』ばかりを集めて見てみたい。

4位『真実一路』(川島雄三)
タイトルからして今まで敬遠してた。つまり、初めて見た。なにやらクッサイ話を想像してたんだけど、全然違っていた。原作は30年代に書かれたものだが、映画公開当時(1954年)にしてもかなり衝撃的な話じゃなかったろうか。何と言っても、淡島千景。

3位『顔役』(勝新太郎)
昔映画馬鹿クラブで上映会をやったときに、なぜだか見に行かなかった。爾来見たい見たいと思っていたこの映画をテレビではあるがついに目にすることができた。ある程度予測はしていたものの、それでも突然隕石が降り落ちてきたような衝撃を感じてしまう映画。こんな衝撃を生じさせるのは他にはパラジャーノフの『火の馬』くらい。

2位『鶴八鶴次郎』(成瀬巳喜男)
成瀬巳喜男の頭の中は一体どうなっていたんだろう。男と女のありきなりな痴話喧嘩を目くるめくほどにワクワクさせる情景にしてしまう。川島雄三や山中貞雄の映画に感じるような何とかして面白く仕立ててやろうという気概すら臭わせず、淡々と切子細工でも仕上げるようにショットを繋いでしまう。宇宙空間で何度も見返して少しでもその思考に接近してみたい。ただし、この映画が成瀬のベストだとは思わない。
煙草の煙が何とも生き生きと長谷川一夫や山田五十鈴の口から吹き出される。
 
1位『丹下左膳餘話 百万両の壺』(山中貞雄)
傳次郎がヌッと立って、片目をギョロギョロさせ「イヤだい」と発声すれば、それが映画である。しばらく前に発見されたという終盤のチャンバラシーン(GHQに切られたやつ)はまだ見たことがない。DVDに収録されてるのだっけ?

というような具合。意識的に久しく見ていない傑作ばかりを選んで見た時期だったので、特に目新しいところもないベストになった。『百万両の壺』を1位に選ぶあたりは、自分が齢十八の頃から大して何も変わらなかったことの証左かもしれない。
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アレクセイ・ゲルマンの死

アレクセイ・ゲルマンが死んだなんて信じたくない。

十何年もの間待ち続けた新作はアフレコの作業を残すのみになっていて、いずれは目にすることができるみたいだが、この偉大な監督がどのように映画を作っていたのかもっと具に知りたいと思う。新作『神様はつらいよ』は、現場を取材したドキュメンタリーが本編よりも早く映画祭などで公開されているらしい。日本でもやってほしいな。

訃報を伝えるニュースの中でゲルマンの演出光景が垣間見える。十年分のこの光景が記録されていないものだろうか。ロシア語を勉強しとくべきだった。

 


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