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12月28日 悪い道 [イーストウッド]

  年越しに備えて諸々の煩悩を打ち消すべくイーストウッドの『許されざる者』を見ようとレンタルビデオ屋に行くと、案の定既に貸し出し中であったので、まだ見ていなかった『ダーティファイター』シリーズを代わりに見ることにした。
イーストウッド作品というものをただ彼の監督作に限定して考えるべきではなく、マルパソプロの作品全体をイーストウッド作品としてみなすべきであるという持論があるにもかかわらず、表紙に兄貴がオランウータンと並んで写っているというだけで今までこの映画を敬遠していたのは自分の不徳のいたすところである。
  われらが兄貴は今やハリウッドの良心として教育委員会の太鼓判すら押されかねない評判ではあるけど、兄貴の天才たる由縁は果敢に馬鹿に徹することができる点にある。事実、喧嘩とセックスの他何も語ろうとはしない『ダーティファイター』には知性のかけらもない。冒頭、とあるバーに入ってきたイーストウッドが隣の客のピーナッツを断りもなしに食べはじめる。怒った客がイーストウッドを「ピーナッツ泥棒」と罵るやいなや殴り合いが始まる。また、別のシーンではトラックの助手席に乗せたオランウータンを中年暴走族に馬鹿にされたイーストウッドが、トラックで執拗に暴走族を追い回す。挙げ句にはバイクを乗り捨てた暴走族を、何故だか道路清掃車のようなものに乗ってまで追いつめようとする。こんな感じで、ソンドラ・ロックの尻を追い回すという話を縦糸に、因縁をつけられては殴り合いをするという光景が止めどもなく繰り返される。そして、随所にイーストウッドの登場するシーンとはまるで関係なく、彼の母親たる腐れ婆さんが自動車の免許の取得試験に失敗するエピソードが差し挟まれる。映画が終わる頃には、イーストウッドの相棒として登場するオランウータンには作劇上の存在意義はまるでなかったことに誰しも気付くはずだ。
  おそらく良識ある人物であれば、イーストウッドの監督作ではないからと言って、この映画における知性の欠如を看過するかもしれない。とはいえ、これほど知性の働きを感じさせることなく映画を終始させることは容易ではない。続編『ダーティファイター/怒りの鉄拳』の方は、笑いを狙う意図が随所に見えてその効果を半減させてしまっている。つまり、『ダーティファイター』は真の阿呆によってのみ作られうる驚くべき映画である。真の阿呆となりうるのは天才のみである。ちなみに『ダーティファイター』は合衆国においてイーストウッドの出演および監督作中最大のヒット作であるらしい。


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