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なめくじになりたい [荘厳]

お久しぶり。

秋葉原のガンダムカフェを出てからというもの、なんやかやでせわしなくて、ようやくのことで二日続けて仕事のない時間がやってきた。とはいへ、いろいろとやらならんことはまあある。だいたいにして脳ミソが、皺が撚り過ぎて収縮してしまっているわけだから、一週間ほどは完全白痴生活をしてツルツルにもどしておかんとアカンと思うわけなのだけど、そうもいかない感じ。

それでもせっかくの休みなのだからというわけで、川向こうの寺に円空仏を拝みに行ってきた。この音楽寺という寺では六月にあじさい祭りが開かれていて、その期間中だけ所蔵の円空仏を見せてくれる。昨年も行ったのだけど、すでに祭りは終わっていて、境内には咲き残ったあじさいだけが待っていた。そのあじさいは、今回はまだその季節には少し早かったようだったが、さすがに祭りの期間中らしく境内はお年寄りたちで賑わっていた。本堂からは、その名前にふさわしい妙なる音楽であるかどうかの判断は想像におまかせするが、カラオケの元気な歌声が響いていた。

ここの円空仏は薬師三尊と十二神将。構成としては三月に見た鉈薬師と同じだが、もっと小振りで、十二神将はより人型をしている。ただここに所蔵されているものの中で目を惹くのは、荒神像。枯れ木そのままの幹の中から神の不敵な表情が彫り出されている。前に写真でも見ていて、見る度に何かが思い出されるその姿形なのだけど、実物を見てもそれが一体何なのかいっこうにわからない。脳ミソの皺の奥深くに詰まってしまって、もう出てきそうにもない何か。

音楽寺は、壬申の乱に功績のあったこの地方の豪族が創建したものらしいが、そう言われてみるとなんとなしに古代の戦乱の痕跡が、風景や風の中に残っているような錯覚がした。その実、うちの界隈と何ら変わったこともない田舎ではある。

休みを利用して映画を見ておきたいとも思った。たとえば山下敦弘の新作とか。しかし、役者を見るとどうも気分がのってこなかった。というわけで、映画は当面いいかな。グラウベル・ローシャ特集はこっち来たら見に行くだろうけど、それもしばらく先のことみたい。

ああそう言えば、江戸東京博物館でやってる五百羅漢展は面白そうだ。この前行ったときに何とか時間の工面をつけて、見に行っておくべきやった。その辺に住んでる方々、どうかわたしの代わりに見ておいて下さいまし。 


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覚王山 [荘厳]

東京からの原発難民の友人夫妻と連れ立って、先月見逃した円空仏を名古屋まで見に出かけた。場所は覚王山、ここに鉈薬師堂と呼ばれるお堂があり、毎月21日だけ門が開かれて所蔵の円空仏を拝することができるのである。しかし、今日書いておきたいのは円空仏のことというよりも、この界隈のこと。

地下鉄を降りると、ホームは改札に向かう婆さまたちでごった返していた。みなみな一様に腰を曲げて、似たり寄ったりの服装をしており、個体としての特徴をなくし、目に見えないある意志が群衆を貫いているかのよう。友人夫妻とはここで落ち合う予定だったのだが、この波の中では稀な異分子を判別することは容易かった。なぜこのように婆さまたちが蝟集していたかというと、弘法大師の命日である21日は縁日ということで、ここ覚王山にある日泰寺の境内と参道には出店が立ち並ぶのであった。わたしたち一行は、この賑わいの中を抜けて、まず当初の目的地である鉈薬師堂に向かうべく、日泰寺を迂回した。参道を外れるとそこは閑静な住宅地になっており、木立に囲まれて鉈薬師堂はひっそりとあった。

鉈薬師堂.jpgここにある円空仏は本尊を除く十七体、脇侍の日光・月光像や十二神将像などである。高さ一メートルほどの十二神将像は堂の左右の壇上に、おそらくは十二支によって示された方角に従って配置されている。立体曼荼羅のようなこの配置は、古めかしいお堂の雰囲気とも相俟って、かつての信仰のありようをそのまま固着させているかのようであった。線香の匂いが立ちこめた堂内には少なからぬ参拝客がいたが、沈黙とは異なる不思議な静けさが支配していた。十二神将の前には何故だか数多くの一円玉が立てられている。そして、半信半疑で自分も一円玉を取り出して立ててみると、これが苦もなく立つのである。円空仏はこれで近場で見られる主なものはだいたい見たと思うのだが、仏を取り囲む空間、あるいは仏によって作り出される空間という意味でいうと、ここはちょっと格別であった。

鉈薬師堂を後にして、界隈をほっつき歩きながら先の日泰寺の境内に入った。広い境内は人でごった返している。ここは、タイの王室からどうやらホンモノであるらしい仏舎利を送られたことを機縁に建てられた、日本で唯一の超党派の寺である。とはいえ、建物自体の歴史は比較的新しいようで、目を惹き付けるものがそれほどあるわけではない。本堂などを見た後、出店などをひやかして山門から外に出た。そして、先に鉈薬師堂に行くときに通り過ぎた参道脇の気になる路地に踏み込んだのだが、そこには奇妙な光景が広がっていた。

鉈薬師堂に行く前に、わたしたちは山門の少し手前にあるお堂に立ち寄っていた。中にはぎょっとするほどの数の地蔵が四方の壁に上の方まで並べられていた。これが一体何に由来するものなのか、わたしにはわからない。ただ、堂の中にひしめき合う人々の宗教的狂熱だけが感じられた。そしてお堂の脇には路地があり、その入り口に「八十八カ所巡り」みたいなことを書いた幟とかが立っている。人々がその奥に吸い込まれていた。信仰の重心はどうやらそちらにあるようだった。何ちゃら八十八カ所みたいなものは四国の他にも各地にあるわけで、そうしたものの札所の一つがここにもあるのだろうとぐらいに最初思った。全然違っていた。

「It's a small world:お遍路バージョン」、そこは仮にこのように名付けることができるかもしれない。 路地の奥には小さなお堂がいくつもあり、その決して広くはない空間を参拝客は数珠のように経巡っていた。お堂は一様ではなく、だいたいが宝くじの券売所ぐらいの大きさの木造の小屋立てなのだが、なかには民家の玄関口だか裏口だかが即席のお堂になっているようなところもある。ただ、参拝するとお菓子をもらえるのはどこもいっしょである。堂守はだいたいおばちゃんで、各堂につき一人か二人でやっているようだが、大きなお堂では子供を連れて来たりしていて、小さな子供が殊勝にお手伝いをしている一方、中高生ぐらいの娘がお堂の中で一心不乱に携帯をいじくったりしている。お堂の近くにはそれぞれ石碑が立てられていて、「何番札所」と書いてある。わたしたちが立ち入った路地には、五番か六番くらいまでの札所があった。つまり、ここには八十八カ所の札所の一つがあるわけではなくて、他の区画も含めて日泰寺の周辺だけで八十八カ所一巡りができる仕組みになっているということだ。四国のお遍路になぞらえて作られたこれらのお堂は、それぞれ本場の札所である寺と同じ名前を持っていることも、後で知った。

 八十八.jpg何で弘法大師の命日が縁日になっているのかという疑問に、これでとりあえずの解答が得られた。しかし、そもそも弘法大師と何の所縁があるのだろうか、なにゆえに八十八カ所巡りがこの土地に再現されているのだろうか。調べてみたかぎり、特にこれといった所縁があるわけではなさそうだ。明治の終わり頃、日泰寺が作られたときに人を集めるためのアトラクションとして仏教界のスーパースターである弘法大師のお力を拝借した、そのように理解しておけばよいのだろうか。だから、悪く言ってしまうとパチモンなんだけれど、それにしても既に百年以上にわたって続けられ、そして今日もまた民衆の宗教的狂熱を受け容れる、そのありようは本物である。安易に参拝の列に加わってしまうことを躊躇わせる怖さがあった。

「覚王山八十八カ所」については、下のリンク先でもっと詳しく紹介されており、わたしも参考にさせていただいた。

http://www.aruku88.net/kobo/ennichi3/index.html

住んだことはことはないが子供の頃から何度も訪れている名古屋という街は、個人的な印象としては、道が広くてすっきりしすぎている。日々の経済活動をおこなったり、ありきたりの欲望を解放するにはしかるべき設備が備わっているのかもしれない。しかし、たとえば魔性に取り憑かれたような場合に、この街ではその魔性を抱えたままいったいどうすればよいのだろうかと疑問に思うことがある。街の外に出るというのは確かに一つの方法であるのだが、大都市にはその内部に魔性を受容してくれるような一隅があってしかるべきである。名古屋にも実際には、わたしが知らないだけで、そうした場所がきっといくつかあるのだろう。この日訪ねた覚王山もまたそのような場所の一つであるようだった。

宗教的意味合いにおいてだけ言っているわけではない。この日は出店が並んでいてちょっとわかりづらかったが、参道の両脇には特色あるお店なんかが軒を連ねているようだった。わたしたちは参道から一つ奥まった通りにある、木造アパートを改装したアトリエ兼ギャラリーみたいなところに入ってみた。中には万華鏡製作教室があったり、針金とかボロキレでできた奇天烈なオブジェが飾られていた。こういう一見何の役にも立ちそうもないものを許容する空気がこの界隈にはあるようだった。わたしたちはここの古本屋でカレーを食べて、昼飯とした。何で古本屋でカレーなのか、そこのところも謎であるが、カレーはうまかった。

原発難民の友人夫妻は翌日東京へ帰っていった。


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コンクリート・ジャングル [荘厳]

すこしずつあったかい陽気になってきて、仕事もなし、外へだらだらと繰り出したい今日このごろ、名古屋の某所へ円空仏を拝みに行こうかなと思ったが、開帳時間が短くすでに間に合わない頃合いだったので、方向転換、わが郷土が生んだもう一人の造形家・浅野祥雲の仕事を見に行くことにした。

浅野祥雲のことを前に書いたか覚えてないが、その仕事を初めて見たのは小学生の頃、歴史の勉強のために家族で行った「関ヶ原ウォーランド」でのことだった。わたしはおそらく平均的な子供たちよりはすでに歴史に強い興味を抱いていた少年であったものの、そこで印象に刻み付けられたのは、「関ヶ原の戦い」そのものの歴史ではなくて、園内で永劫の合戦を続けている不可思議なコンクリート像群だった。一種の迫真性みたいなものは確かにあったと思う。だが、リアルというのとはすこし違う。人の形を与えられて、合戦の真似事を行わなければならないということに驚いているような、そんな像だった記憶がある。それらの像が浅野祥雲というコンクリート塑像家の手によるものだと知ったのは、ずっと後のことである。祥雲の仕事は、近年一部の好事家の注目を集めるようになっており、本も出ている。

今日出かけたのは、犬山にある成田山の別院。近くには祥雲ファンの聖地の一つ「桃太郎神社」もあるが、そこは去年行った。成田山別院は、電車からいつも目にしているが、訪れたことはなかった。この地方では初詣でで賑わう仏閣として名前を知られているところであり、駐車場がむちゃくちゃ広い。山門を抜けると、本堂に通じる石段のすぐ手前に祥雲の仏像群がある。「五大明王」と「八大童子」だったはず。写真で部分的に紹介しておこう。

祥雲1.JPG


本堂の裏手にも、「三十六大童子」(数字は正確に覚えてない)だったかな、そんな名前の群像がある。わたしとしては、こちらの方が表情が豊かで好きである。

祥雲2.jpg


祥雲3.jpg


「関ヶ原ウォーランド」や「桃太郎神社」の像はペンキで塗りたくられており、もっと激しい情動を表していたが、朱一色で統一されたこちらの像の方が、像本来が持つ表情を目にすることができるかもしれない。

写真は他にもあるのだが、もし興味を持たれたなら、実際に行って見られるのがよいと思う。また、祥雲を詳しく紹介しているサイトもあるので、そちらを参照されるのもよかろう。

祥雲ファンの聖地の中ではまだ行っていない「五色園」にも、いつになるかわからないが、行ってみたい。
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おのぼりさん [荘厳]

地元の歴史博物館で行われている洛中洛外図の特別展を見に行った。むかし歴史の資料集なんかで心そそられた洛中洛外図、一度実物を見たいと思っていた。

洛中洛外図は通常六曲一双の屏風絵として制作されたもので、今回の展示では四双(と数えていいのかどうか)を見ることができた。といっても、ガラスケースの向こう側、わかってはいるのだが、この見づらさには毎度イライラさせられる。入り口におもちゃルーペが置いてあり、自由に使うことができたのだが、それを使うと却って見づらい。おばちゃまたちも「なしの方がええわ」と。

しかし一旦視線を走らせると止まらなくなってしまった。二条城や御所のほか江戸初期の京を形作る主だった建物の間々に、種々雑多な階層と職業の人々がうじゃうじゃと徘徊している。祇園祭とか何ちゃらの宮の行幸が中心的な画題になることが多いようだが、視線を誘うような中心が特にあるわけではない。ある路上では褌一枚でおっさんどもが相撲をとっていたり、鴨川ではおかみさんたちが洗濯をしていたりする一方で、宮中では雅な衣装に身を包まれたお公家様がそぞろ歩いたりしている。都の上空から人々の生活を覗き見していたら、あっという間に時間が過ぎて閉館の案内が館内に流れていた。

というように、けっこう楽しんで見ることができた。ただ、物足りないところもある。というのは、ここに描かれているのはどうやら都市生活の明るい側面だけだからである。何ものか特定しようもない連中もいるにはいるのだが、概ね人々は都の中で自分に与えられた場所を満喫しているかのようである。隅々まで見渡す時間があったわけではないので確かなことは言えない。しかし、日々の生活の中で突如口を開ける裂け目のようなものがそこにはない。いや実を言えば、一つの屏風にはその兆しを感じた。道行く女性が蹴躓いて、腹這いに倒れていた。うつ伏せになっていつまでも立ち上がろうとしない彼女は連れの女性にこう言っている。もういやや、足痛いねん、お祭りも京も嫌いや、みんな燃えてなくなってしまえばええんや。


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ミュートする寺 [荘厳]

DSCF1655.JPG円空仏探訪の続き。道に迷いながら、川向こうにある音楽寺というところに来た。円空仏を伝えている主要な神社仏閣・博物館の中ではここが一番近い。素敵な響きの名前を持つこの寺には、円空のスタイルが劇的に変化した時期に彫られた十二神将像などが残されている。

この寺は紫陽花でも有名らしく、6月中は紫陽花祭りが行われていたらしい。昨日わたしが訪れたときは、すでに季節が過ぎていたせいか、陽射しが強い一日だったせいか、花はまだ残っていたものの、少し色褪せてしまっていたようだった。ところで、目的の円空仏はこの紫陽花祭期間中しか拝観できないらしい。残念ながら、仏たちが奏でる妙なる楽の音を聞き取ることはできなかった。来年の紫陽花祭の期間に果たしてこの地にいられるかどうか。

夜は、DVDでオーソン・ウェルズの『ドン・キホーテ』。フランスにいたときに買っておいたのを漸く見た。ご存知のように未完の映画なのだが、何処の馬の骨か知らんスペイン人の監督が偶然フィルムを発見して、勝手に編集して世に出してしまった。この編集が酷い仕事で、無理に話を繋げるくらいならば、ラッシュ状態のものをそのまま断片として提示してくれた方がよかった。こちらで好きなように編集できるようにしてくれれば、なおよかった。この映画に関してどのくらい資料が残されていて、またスペイン人監督どもがどのくらい関与しているかははっきりわからない。しかし我慢して最後まで見ていると、何となくオーソン・ウェルズが構想していたものが見えて来る。何となく、ね。


タグ:円空
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仏は出張中 [荘厳]

先週だか先々週、円空入定の地を訪ねたことはここにも書いたけど、一昨日は上人生誕の地と考えられている羽島の中観音堂へ行った。前は山を越えて行ったわけだが、今回は川下へ向かって平野を原付で駆け抜けた。

円空の生誕地については諸説あり、郡上の方とする見解もあるようだが、『近世畸人伝』などの文献的裏付けもあるらしく羽島の方が有力と聞く(つい最近梅原猛の『歓喜する円空』を読んでそういうことを知った。そこに言及されている資料、見解が全てかどうか知らないので、各説の正当性がどの程度のものなのかは量りようもない。ただ、『歓喜する円空』はおもろかった。円空についてまとまった本を読むのはこれが初めてである)。ここには円空が産湯につかったとされる井戸もある。それは、さすがに伝承の域を出ないであろうが。

中観音堂は、併設の資料館の写真を見ると、かつては木造のボロ堂で、破れた天井から青大将が落ちてきそうな、とても味わい深い外観をしていたみたいだが、いまは鉄筋で小ぎれいなつくりになっている。ここでは初期円空仏の完成期に作られた仏像を中心に十数体を拝むことができる。

荒子観音で見た仏像群が彫りの運動をそのまま見せている感じがするのに対して、ここのはまだある様式性を追求しているような感じがする(そういうことは解説を読んだから気付いたのだと思う)。彫りは丁寧で、鬼子母神の衣の襞とか不動明王の腕の隆起は巧みである。その一方、不動明王が細部のバランスが崩れるのを度外視してとっているポーズは、緊張を表現していると言うよりも、それ自体いつ壊れるかもしれない形体が緊張状態におかれていて、実に面白い。

仏像の数が何か足りねえんじゃねえか、と思ってパンフと見比べてみると、大黒天がいない。堂守のじいさまに聞いてみたが要領を得ない、というか何かお茶を濁された感じがした。隣の市でやってる展示に出張中だと考えるのだが、かつての習俗通りに病人のいるお宅に貸し出されていて、そういうことは余所者に口外できないとかあるのかしらん。それとも、心の清い人にしか見えないだろうか。


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原付ホッパー対爆走トラック軍団 [荘厳]

原付でいく山も越えた。山で遮られた北の市へ抜ける道は少ない。幅の狭い道を途中何度もトラックに潰されそうになって通り過ぎたのだ。

辿り着いたのは円空の博物館。展示された円空仏はそれほど目を引くわけではなかった。ただ、土地の持っている空気が独特だ。長良川沿いの林の中に位置する博物館は、表の通りからは隠されていて、駐車場からは緑深い林道を歩く。少しすると、木がなくて上に開かれた空間が現れる。円空が再興した弥勒寺の遺構である。時間の落とし穴にハマったような錯覚がした。首に矢を突き刺した落ち武者が木陰から今にも出てきそうだった。

DSCF1642.JPG
 
ここは円空が入定した土地でもあり、表通りには入定塚、そして林の中には墓がある。
 
DSCF1651.JPG
 
 
帰り道、老人ホームに寄ってここに幽閉されている祖母の顔を見に行く。どうにかこうにかわたしを認識することができた祖母の話は留まるところを知らない。時間はずれっぱなしだ。


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長谷川等伯展に行く [荘厳]

昨年秋に帰国して最初に東京に行った折に、上野の国立博物館に行った。辻惟雄の『日本美術の歴史』を読んだばかりで、図録に載っている有名な作品を実際に見てみたいと思ってのことだったが、考えが甘かった。国宝とかになってる有名なやつは滅多に展示されないことを知らなかった。なかでも長谷川等伯の『松林図屏風』を見たかったのだが、偶然にも「等伯展」が企画されていることを知ったのは、全くツイていた。

というわけで、三度目の東京。職業的また非職業的のもろもろの目的。非職業的目的の主は「等伯展」。上野には前にやった「土偶展」も行きたかったのだが、これは断念した。期待に胸膨らませて入り口に着くと、会期終了間際の連休でもあり、予想された通りの人人人の長蛇の列。40分待ちが告げられている。退却したい弱気を抑えて、深夜バスで7時間かけてやってきた労苦に報いるべく入場した。

会場内もひしめく人だかり。絵の前に静止していても、おばちゃんなどがバンバン衝突して来る。それでもまあ、見に来てよかった。簫白とか若沖のように強烈な個を感じさせられることはない、あるいはわたしがそれを感取する能力を欠いているのであるが、一人の天才的絵師の生涯と業を通して桃山美術の粋のようなものは垣間見ることができた。とはいえ、秀吉などの依頼によって制作された金碧画なんかはどうも好きになれない。製作当時の色合いはおそらく失われて久しいのだろうが、金箔は余計のように思えるのである。その一方、あまり予備知識もなく出かけて行ったこともあり、『大涅槃図』には腰を抜かした。表装を含めておよそ10メートル。博物館の壁には掛かり切らず、下部はたわめて台座に広げられている。所蔵する本法寺に行ったら、ちゃんと掛かった状態で見ることはできるのだろうか。見てみたい。

念願だった『松林図屏風』は最後の最後に展示されており、前には三重四重の人垣。しかし、写真などで見るよりも松の葉や根といった細部はずっと楽しむことができる。だからといって、絵全体の持つ不可思議な空気を何かに還元して見ることは依然困難だ。直前の水墨画のコーナーはこの絵を見るための伏線を用意してくれているように思えたが、それでもやはり飛躍があるような気がした。キリスト教の聖骸布になぞらえたい誘惑に駆られるが、描線には宗教的な意味合いに回収することを拒むような厳しさがある。だが、描き手の「個」を主張するような描線とも違うような。

人の波に押され、ぽっかり空白を残して外に出た。

 


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ほとけあふれる [荘厳]

地元ということもあって、円空の名を記憶に留めたのは中学生か高校生の頃だったと思うが、その年頃に格別仏像に興味を抱くようなガキでもなかった。仏像に限らず彫刻全般に興味を持ち始めたのはBの首都Bに住んでいた頃のことであって、だから昨今の流行とははっきりと異なる根を持っていることを一応断っておきたいのだが、だからといって流行のおかげで情報が入手しやすくなっていることは確かである。

年来訪ねたいと思っていた名古屋は荒子観音寺に行ってきた。ここは円空ファンには周知の寺で、大小含めて1240体ほどの円空仏を有しており、すなわちそれは現存する円空さんのおよそ四分の一に相当する。また解説のおっさんの話に従うならば、ここにある円空sは現存円空中の最大円空および最小円空の両円空をも含んでおり、あらゆる種類の円空を網羅しているようだ。円空ファンにとってのメッカ、いや、ブッダガヤとも呼ぶべき寺である。ただし、ここではこれら秘蔵の円空sを月1回、第二土曜日しか一般公開しないので、今までなかなか見に行く機会がなかった。

最大円空、すなわち山門の仁王像はいつでも見ることができるのだが、ガラスの入った格子枠と反射光のせいではっきり見ることはできない。500円を払って奥ノ坊に入ると、円空sがひな壇に並んでいる。大きさや様式は様々である。かなり丁寧に彫り込まれているものもあれば、まあ台風の後に河岸に流れ着いた木片そのままのようなのもある。鉈の台として利用されていた木片から姿を彫り起こされたものや、腹部に深い鋸の痕を残しているようなのもいる。わたしのお気に入りは宇賀神像だ。蛇がとぐろを巻いている神様で、タイヤを積み重ねたような姿をしている。これは穀物の神様で、どっかの台所の奥まった薄暗いところに捨て置かれていたものだと解説してもらった気がする。かつてはそういう場所には青大将がよくいたものだ、多分。仏と仏ならざるもの、姿あるものと姿なきものの間の境目は希薄である。ただ鉈と鑿の運動が刻み付けられている。

ここの円空sの目玉は何といっても1200体あるという木っ端仏であろう。昭和47年に住職が発見した箱の中に仏どもが詰め込まれていたという。大きな仏像を彫った後に残った端材で作られた全長10センチにも満たない棒に顔が刻まれている。(『木乃伊の恋』を思い出したのはわたしだけだろうか。)木っ端仏たちはひな壇の両脇にあるガラスケースに並べて展示されている。こいつらの中に近所の洟垂れ小僧が彫ったものが混じっていたり、住職がいたずらで自作の木っ端仏を忍び込ませたりしたとしても見分けることは困難だろう。それほど単純な仏である。しかも驚いたことに、箱の中に見つかったのは仏どもだけではない。  何の細工もない木屑も一緒に詰め込まれていたというのだ。木屑も同様にガラスケースに展示されているわけだが、これらの木屑が仏でないと誰が主張できるだろう。だが逆にそれらを仏だと言ってありがたがったりすれば、それはアホである。

 月1回のみの公開ということもあり、たくさんの参拝客が来ていた。なので、じっくり心ゆくまで眺め惚けるというわけにもいかなかった。夜は久々に再会した友人と酒を飲んで、俗世の話などする。アルコールとニコチンで頭を麻痺させて帰宅。ああ、余が洟垂れ小僧であったころ、道端で拾得して犬の糞など刺して友らと興じ狂ったあの木切れに、よもや円空さんが業を刻んだ痕でもあったのではあるまいか、などという愚にもつかない思念が去来する。止む無し、諸行無常。ネットオークションを調べてみると、円空仏を称する品が1、2万円で取引されている。お金に余裕がある人は購入してみるもよし。一家に1体ぐらいはあって然るべき気もする。わたしは近く原付の乗り方でも覚えて、暖かくなったら山の方の円空sも見に行ってみたいと思う。


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弘法ランド [荘厳]

前回の続き。
バスで山から下りる。予定していたよりも早く参拝が済んでしまったので、沿線にある仁和寺にも参ろうかと考えたが、それには時間が足りそうにない。二条駅前で降りて鴨川方面にぶらぶら歩いた。途中で在原業平の邸跡と書かれた石碑を発見。凄いね、東京に住んでいた頃には近くに新渡戸稲造とか江戸川乱歩の邸があったりしたものだが、在原業平となると次元が違ってしまう。さらに歩くと小学校の修学旅行で泊まった宿を見つけた。

夜は木賃宿に宿泊。本当はお座敷などに上がって、舞妓さんを呼んで野球拳をしたり、三味線の音に合わせて乱舞、大判小判をまき散らしヨヨイのヨイとしたいところだが、そんなことが許される懐事情ではない。しかしシャワーを浴びるだけではいかにも寂しいので銭湯に行く。こちらの銭湯は東京のそれとはスタイルが違うのか、それとも今回の銭湯のみ特殊だったのかわからないが、浴室の奥に長方形の大きな浴槽があるのではなくて、中小の浴槽、それも電気風呂とか薬湯とかが散在し、客もまた湯にゆったりと浸かったりせず、浴室奥のサウナと水風呂を往復していた。ここらでは銭湯に来るのは湯に入るためというよりもサウナ目当てなのだろうか。他はどうなってるか知らないが、自分は東京の銭湯の方が好きだと思った。

翌朝は昨日通り過ぎた仁和寺に詣でる。昔『徒然草』を読んで以来その名前を記憶している。ここは天皇が造築した寺で宸殿や庭園などを内包した典雅な場所ではあるのだけど、昨日参拝した山の中の二寺のような感慨は湧かない。また、近くには石庭で有名な竜安寺、この前博物館で寺宝の展示を見た妙心寺などもあり、自分はまだ訪れたことがないのだが、今回は真言宗系の寺を中心に回っているのと、そのためには今回の旅でどうしても参拝しておきたい寺がありそちらに時間をかけたかったので、先を急いだ。

最後の目的地は東寺である。告白するが、自分は真言密教の総本山の一つであるばかりでなく千年都市の歴史をそれ自体で体現するかのようなこの寺を今の今まで訪れることがなかったことを恥ずかしく思う。本来であれば修学旅行か何かのコースに組み込まれているべきはずであった。京都御所とか二条城などこの寺に比べれば、まあどうでもよい。鶯張りの廊下とやらを嬉々と踏み鳴らし、洟を垂れ散らかした少年時代、思えば精神的に極めて貧しい少年時代であった。そして道を踏み誤った。大人たち、学校の先生たちを怨めしく思いもするが、それは再び仏の道を踏み外すことでもあるので、涙を拭ってわたしは境内に歩を進めた。

真っ先に向かったのは講堂で、ここには立体曼荼羅がある。今回の旅は神護寺の薬師如来とこれを主要目的にしていた。その名が示すように仏像によって形成されるこの曼荼羅は、弘法大師の教えを空間的に表している。講堂に入るや否や、その全体の重量に圧倒させる。わたしはすでに浄土に来てしまったのだろうか。計21体の仏像があり、うち15体が国宝である。上野の国立博物館においてすらこれほどの数の国宝を一つ場所で見ることなどまずないであろう。細部に視線を廻らすが、決して飽き足ることがない。手前の菩薩から奥の菩薩へ、右の菩薩から左の如来へ、という具合に視線は連続し、そして回帰する。時間さえ許せばいつまでも眺めていたい気分である。堂内には若い娘さんも何人かいたのであるが、いつしか恍惚の表情を浮かべて合掌、目を瞑っていつまでも頭を上げようとしない。ある意味欲深い娘さんたちだ、どんだけ願い事があるんじゃ、ふとこんなことを考えてしまったが、こんなに沢山の尊い仏様たちであれば、彼女たちの願い事の千や二千は軽く叶えてくれるはず。

そこへ修学旅行の一団が堂内に雪崩れ込んできた。ガイドのお姉さんに先導された30人ほどの男子高校生のグループで、がやがや五月蝿くなりそうだと不安がよぎったが、お姉さんが簡単な説明をして「有り難い仏様なのでちゃんと拝んどいてくださいね」と言うと一団はとっとと出て行ってしまった。自分が落ち着いて参拝する分にはこれでいい、お姉さんも他の参拝客の迷惑を考えてこうしてるのだと思う。だが高校生たちにとってはこんなのでよいのだろうか。すると、二人の高校生が一団が去った後も「かっけえ」などと呟いて仏像群に見とれている。二人は高校を卒業後、仏教系の大学に進学し修行を積んだ後に出家、新世代の仏教界の担い手として活躍する。しかし、理論上の対立から二人はいつしか袂を分かつ、それぞれの寺門を武装し、紛争が始まる。宗教戦争は苛烈を極め、世界規模に発展、ここに至って二人は争いの虚しさを痛感し、おのおの高野山に上り入定する決意をする。二人が今や肉体とも魂とも分からぬ状態になったとき、山の陰から弘法大師が現れて二人を引き会わせるのである。二人の肩に手をかけて慈愛に満ちた微笑を浮かべる弘法大師、よよと泣き崩れる二人。二人が顔を上げて目を開けると、自分たちがまだ東寺の講堂で立体曼荼羅の前にいることに気付くのであった。

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東寺の見所はもちろん立体曼荼羅だけではない。今回は運良くいくつかの特別展示も催されており、例えば五重塔の内部を拝観することができた。たぶんこの類いの建造物の中に入るのは初めてのことで、中央の心棒を囲んで四面に金ぴかの如来が配されていることはまだ予想の範囲内であったが、天井と壁が極彩色で飾られているのにはたまげた。また、東寺は国内最古の彩色両界曼荼羅を有する寺でもあり、今回はそれが5年に一度展示される機会にも重なった。両界曼荼羅というのは胎蔵界と金剛界二つの曼荼羅から成るもので、二つセットでないとあかんらしい。ただ、国宝でもあるこれらは残念ながら一つずつしか展示されていない様子で、今回見ることができたのは金剛界のみであった。それを見ながら、いやあオレこんな判断を下すのは人生で初めてなんだけど、実を言うと金剛界の方が好きなんだよね、いやあその大好きな金剛界を見ることができるオレはとってもついているのだ、などと心の中でひとりごち、反対側の壁に両界そろって掲げられているコピーを一瞥したとき、本当は胎蔵界の方が格好よいのではないか?という不安が立ち所に沸き上ると、心に隙間風が吹き始めた。しかし、問題はそういうことではなく、二つそろわないとあかんということなので、またの機会に胎蔵界を見たいものだと思う。

また寺域には貴重な建築物も残り、弘法大師が住まったとされる大師堂や江戸初期建造の観智院客殿などが国宝に指定されている。しかし、観智院は客殿よりも奥の茶室に心惹かれた。開け放たれた障子窓の前に正座し庭を眺める若い娘さんがうっとり、その娘さんを眺めてわたしもうっとり、娘さんを後ろから抱きすくめて、二人で畳の上を転げ回りたいなどという衝動…、いやそういうことではなくて、こういうところで勉強したらきっと捗るであろうと、まあそういう空間であり、こんなところ住まうことができる人を大変羨ましく思ったのだが、例えば宮本武蔵なども一乗寺の決戦の後ここに匿われていたのであって、武蔵が描いたと伝えられる襖絵が残っている。損耗が激しいものの、どこかしら等伯の作風を想起させるところもある絵であった。

このようにまだまだ多くの見所があってその全てを書き記すことはできない。寺の拝観料というのは意外と高いものだなと思っていたのだが、東寺は今回参拝した寺の中でもっとも高い1300円を支払いながらも、それが大変お値打ちとすら感じられるほど内容が充実したものであった。仮に京都に住んでいたら、年間フリーパスみたいなものを購入して通いたいほどである。連休も残すところあと1日となってしまったが、もしまだ明日のデートでディズニーランドへ行こうか東寺へ行こうか迷っている人がいるなら、わたしは迷うことなく東寺を推す(ちなみにディズニーランドには3回行っているので、自分には比較するだけの資格が十分にある思う)。そもそもネズミのぬいぐるみにお参りしたってご利益は期待できない。

わたしの荘厳の旅はまだ始まったばかりである。西方浄土はまだ遠い。次は高野山か兵庫の浄土寺あたりに行きたいと思っているのだが、いつになることか。
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