SSブログ
ウィリアム・ウェルマン ブログトップ

バットを持ったイーストウッド [ウィリアム・ウェルマン]

あたくしの知るかぎり、ハリウッドは今まで傑出した野球映画というものを生み出していない。おそらく異論は多々あるだろうが、もし傑出したハリウッド野球映画が存在していたなら、少なくとも西ヨーロッパにおいて野球はもっと普及していたはずである。そうしてみると、もしイーストウッドが野球映画を撮っていたなら、44マグナムの代わりにバットを握っていたならという妄想を廻らしてみるのも、面白いかもしれない。しかし、そもそもイーストウッドは野球ができるのかという疑問がある。これをお読みのあなたたちは当然、イーストウッドさへいれば世の中何もいらないと豪語するイーストウッド信者であり、天才イーストウッドが野球をしていれば、ダルビッシュ渾身のストレートを軽くスタンドインさせていただろうと、言い張るに違いない。あたくしもそう信じていた、『Lafayette Escadrille』を見るまでは。

『Lafayette Escadrille』はウィリアム・ウェルマンの遺作であり、本作においてウェルマンは外人部隊に所属し第一次大戦に参戦した自身の体験を描こうとしているのであるが、資金難のために納得する出来栄えには至らなかった。イーストウッドはこの映画に、主人公と同じ部隊に所属する若きアメリカ人兵士として端役を得ている。まだ20代である。その風貌と長身は、数多くの兵士たちの中でもイーストウッドを際立たせているが、飽くまで端役であり台詞も多くはない。そんな中、イーストウッドが脚光を浴びるシーンがある。訓練中の兵士たちが休憩時間に野球をするシーンである。バットを持ったイーストウッドが右打席に立つ。

打撃フォームは、残念ながらひどいものである。ド素人のそれであり、完全な手振りである。これでは仮にバットにボールを当てても、せいぜい内野ゴロであろう。あたくしと大差ない。しかしそれでも、イーストウッドはカウント2-3まで持ち込む。選球眼はさすがと言うべきだろうか。そして最後の一球、奇跡が起こる。イーストウッドはやはり天才であったと言わざるを得ない。イーストウッド信者であるあなたたちには、すでに結果が予想できていたかもしれない。そう、デッドボール、それも頭部への危険球を、イーストウッドは受けた。

『グラントリノ』において自らの体に銃弾を雨霰と打ち込ませて銀幕から姿を消したスターは、そのキャリアの最初期に攻撃を受ける者としての天才を開花させようとしていたわけだ。試合の行方を決めるような分水嶺となる一球が常にある。あたくしたちは、イーストウッドをして野球界ではなく映画界へと舵を取らせたこの危険球に感謝すべきだろう。そして、このようにして若き才能を見出したウェルマンはやはり偉大である。もっとも、引きの絵で撮られたこのシーンでは、攻撃を受けた後にイーストウッドが見せる、あの誰もを魅了する苦々しい表情は確認できない。危険球を受けて怒り狂った若きクリントは、ピッチャーを追いかけてバットを投げつける。

晩年のウェルマンは、映画史にもう一つの遺産を残している。『Lafayette Escadrille』の一つ前の『Darby's Rangers』でのことである。ここにはイーストウッドは姿を現してはいない。しかし、映画史に燦然と輝くあの名シーンの原典がここにある。そう、『ハートブレイクリッジ』の中で鬼教官イーストウッドが、ランニングする不良兵士たちめがけて、林の陰から機銃掃射するあのシーンのことである。そっくりそのまま『Darby's Rangers』から借用されている。

『Lafayette Escadrille』も『Darby's Rangers』も、ウェルマンのキャリアの中で必ずしも出来の良い部類の映画ではない。だが、スターそして映画監督としてのイーストウッドの誕生を予見させるという点で、実に貴重だと思う。
nice!(0)  コメント(0) 

ウェルマンとジョン・ウェイン [ウィリアム・ウェルマン]

前から何度も書いている『ジョン・ウェイン アドベンチャーコレクション』を漸く見始めた。このボックスセットを買ったのはウェルマン監督作の『Island in the sky』(1953 : 邦題『男の叫び』)と『The High and the Mighty』(1954 : 邦題『紅の翼』)が目的であったのだが、まずはその2本を見た。(ウェルマンのジョン・ウェイン主演作では他に『中共脱出』があり、これはこのボックスには入ってはいないが、日本版も安価で出ている。ただ、わたしはまだ見てない。上の2本については日本版DVDは現在のところない。)

これらの2本の映画は、アメリカでも権利の問題やプリントの劣化のため長らく見ることができなくなっていたらしく、もろもろの問題がクリアされてソフト化されたのは数年前である。いわば「失われた」ジョン・ウェイン映画であった。

「失われた」ことは映画の内容のせいではあるまいが、2本の映画に見られるジョン・ウェインは、フォードとかホークスに登場する、わたしが典型的だと思っているジョン・ウェイン、荒野に馬を駆り、酒場で殴り合いをするようなジョン・ウェイン像とはかなり隔たりがある。タイトルが表しているように2本とも航空映画である。なので、ジョン・ウェインがまず飛行機の操縦席に押し込められるのは必然である。となると、あの大きな体躯を活かしたアクションは禁じられてしまう。ジョン・ウェインが飛行機に乗るのは何もウェルマンのこの2本だけではなくて、たとえばスタンバーグの『ジェットパイロット』とかもあるのだけど、そこでは飛行機を降りてのアクションなどもかなり盛り込まれていた記憶がある。

確かに『Island in the sky』では、輸送機は早々に不時着してジョン・ウェインは地上の人となるわけだが、降り立った土地は酷寒の北極圏であり、下手に移動してはぐれるよりも、かまくらを作って救助が来るのを待つことが最善の土地である。派手なアクションは禁じられて、「捜索者」ジョン・ウェインは映画が終わるまでひたすら捜索される立場に置かれてしまう。 ここにジョン・ウェインの新たな魅力が発見されるかどうかは、よく分からない。ま、見る人次第だと思う。わたしとしては、ウェルマンのフィルモグラフィのなかで雪原が舞台として繰り返し現れることに興味を持った。『戦場』、そして後の傑作『Track of the Cat』のことが頭に浮かんだ。

『The High and the Mighty』でのジョン・ウェインは、旅客機のパイロットである。飛行中トラブルに見舞われた旅客機の中で、乗り合わせた旅客たちの人生模様が浮き彫りになる。言わば群像劇であり、またパニック映画の定型が本作においてすでに完成されている。ジョン・ウェインは徹頭徹尾狭い旅客機の機体の中に閉じ込められており、大暴れして旅客たちのパニックを掻き立てるような振る舞いはもちろん許されるはずもない。機体の中で展開されるのは、彼の物語でなく、平凡な市民である個々の旅客たちの物語であって、ジョン・ウェインは言ってみればその狂言まわしに過ぎない。よくできた話であり、140分の間飽きることはない。とはいえ、旅客機の内部というのは被写体として、また舞台として、いつも何かもの足らない。旅客機が一般的な交通の手段になりつつある時期で、そういう時代背景もあった上での本作ではあったのだろうと思うが、もっとも魅力的なシーンは無線通信を媒介する船の中であった(波の揺れに合わせて、メキシコ人の無線技師がキャスター付きの椅子で船内を滑走する)。次いでに書いとくと、記憶する映画史上もっとも楽しい旅客機の客室シーンは『エマニュエル夫人』の夢のシーンである。


nice!(0)  コメント(0) 

暴動 [ウィリアム・ウェルマン]

ウィリアム・ウェルマンはやはり、とてつもない監督だ。『Forbidden Hollywood vol. 3』収録の『Heroes for Sale』、『Wild Boys of the Road』を見た率直な感想である。

プレコード時代の映画を集めたこのボックスセットは、プログラムピクチャー的なものばかりを収録しているのだと思い込んで軽い気持ちで見ていたら、強烈なボディブローを鳩尾に喰らった。1930年代前半にハリウッドでこのような映画が撮られたなどとはちょっと信じ難い。もし40年代末に撮られていたら、ウェルマンが赤狩りの標的になっていた可能性すら想像できる。

所謂社会派の映画というのは、大恐慌の時代だけに他にもあったはずだし(たとえばキャプラとか)、それ以前、たとえばグリフィスだってもちろんやっていたわけだが、体制に対する民衆による集団的直接行動、つまり暴動をウェルマンの2本の映画ほど見事に映し出したことがかつてあったのだろうか。

エイゼンシュテインがアメリカを訪問したのは1930年ぐらいだったと思うが、その映画がウェルマンに示唆を与えたということは充分に考えられる。リチャード・バーセルメス主演の『Heroes for Sale』に登場する群衆は、本物の労働者や浮浪者だったらしい。

しかし、『Wild Boys of the Road』が見せる職を求めて鉄道でアメリカを放浪する少年少女たちの運動をエイゼンシュテインが果たして捉えることができただろうか。警察に列車から追い立てられた少年少女に先輩浮浪者が言う、「奴らはせいぜい20人、お前たちは100人。なぜ戦わない?楽勝だろ」。鎖が断ち切られたように暴れまくる集団としての少年少女の運動は、『Blow the Night / 夜をぶっ飛ばせ』の他にその例を記憶しない(曽根中生の場合は、窓ガラスによって閉鎖された空間=学校内での暴動という点で特殊だけど)。

ウェルマンはこの4年後にメロドラマ『スタア誕生』を撮っている。全く底知れない。ボックスセットにはウェルマンに関する2本のドキュメンタリーも収録されていて、彼の仕事に関する理解を少し助けてくれる。しかし、30年代前半の監督作だけでもまだまだ気になるものがある。TCMにおかわりをお願いしたいな。


nice!(0)  コメント(0) 

禁断の聖林 [ウィリアム・ウェルマン]

先月届いたDVD『Forbidden Hollywood vol. 3』(TCM Archives)をようやく見始めた。このシリーズは、プレコードフィルム、すなわちトーキー導入からヘイズコードの適用が強化される1934年以前の映画を集めたもので、「禁止された」などと聞くと物凄いエロを想像してしまいがちだが、われわれの感覚からするとヘイズコードというものが念頭になければ普通の映画である。ヘイズコードは、ハリウッド映画の公序良俗を規制するために設けられた規則集で、1960年代にレイティングシステムが開始されるまで適用されていた。その内容のバカバカしさ(ダブルベッド禁止とか)はよく指摘されるところだが、詳しいことは知らない。それを意識して映画を見たこともあまりない。

その『Vol. 3』は、ウェリアム・ウェルマンばかり6本収めている。このような企画でもなければDVD化されることのないような映画ばかりである。ウェルマンの名前でボックスセットを作るとしても、この6本が集められることはまずないだろう。日本映画で例えるなら、「傾向映画」コレクションと称して戦前の豊田四郎ばかりでボックスセットを作るようなものである。一方、IMDBでウェルマンのフィルモグラフィーを見ると、1930年代前半の多作ぶりは顕著で、31年に5本、32年に6本、33年にも6本撮っている。しかし、その中でよく知られているのはキャグニーの『民衆の敵』ぐらいで、その他の仕事はほぼ無視されていると言ってよい。それゆえ、このようなボックスセットが作られたことは快挙である。

収められているのは、『Other Men's Women』、『The Purchase Price』、『Frisco Jenny』、『Midnight Mary』、『Heroes for Sale』、『Wild Boys of the Road』で、 今のところ前の4本を見た。コードとの関係で言うと、これらがどの程度それに抵触しているのかは正確にはわからない。『The Purchase Price』の中でバーバラ・スタンウィックが頻繁に下着姿になるのは、彼女がウェルマンと撮った『夜の看護婦』同様に問題になるだろうと想像がつくぐらいである。どの映画も完成度が高いわけではなく、それゆえに後世の無視に晒されてきたのかもしれないが、見るに値する充分な面白さを持っている。以下に気付いたことを幾つか書き留めておきたい。

ウェルマンと言うと、西部劇とか戦争映画が多くて、「ワイルドビル」なる異名も雄々しいイメージを与える。しかし、今回見た4本中3本は女性が主人公であり、残る1本『Other Men's Women』も主人公の鉄道員二人よりも、二人と三角関係になる女性の方が印象深い。『The Purchase Price』の農村で新婚生活を営む元歌姫、『Frisco Jenny』の裏社会を取り仕切る女ボス、『Midnight Mary』の弁護士と恋に落ちるヤクザの情婦、どの女主人公もかなり攻撃的で、これは時代の風潮とも言える。そして、ウェルマンを見ていて今まで気が付かなかったことだが、キスシーンが女性主導であることが多い。確かに、映画史に名を残すキスシーンは多々ある。しかし、特に凝った演出をしているわけでもないこれらのウェルマン映画のキスシーンが、予期せず心の琴線に触れてしまったのは、わたしの密かな欲望に呼応していたからだろうか。

その一方で、女たちを取り囲むおっさん連中の低劣ぶりがまた素晴らしい。『The Purchase Price』の冒頭で「Take me away」と歌うバーバラ・スタンウィックに見つめられた太っちょのおっさんの表情に比類する惚け顔は記憶にないし、『Midnight Mary』で弁護士事務所の秘書として働くロレッタ・ヤングの太ももに興奮を掻き立てられた上司のおっさんが、「もう堪らん!」と叫んで彼女に飛びつくシーンは涙なくして見ることはできない。いかにも実直そうな上司が、そのために信用と職を失い、家族ともども路頭に迷っている姿すら思い浮かべることができる。大不況下での失態である。

このように、ウェルマンの映画は魅力的な細部を鏤めているわけだが、全体を制御しようとする意志、リズムはやはり欠いている。これは何も欠点を指摘しているのではなく、ウェルマンの特徴であり、魅力の一つだと言える。映画はもう一シーンあってもよさそうなところで唐突に終わるのであって、この辺の潔さが素晴らしい。野球解説でも余計な御託を並べて耳に五月蝿いS氏などよりも、必要なときに必要なことだけ話して、あとは「便所にでも行ってるんじゃないか」と思わせるほど沈黙している権藤さんの方が、現場の面白さをより的確に把握させてくれるのと同じである。


nice!(0)  コメント(0) 

Short time for Insanity 第29日 [ウィリアム・ウェルマン]

 冷たい水に流された男の体は、川下で橋桁に引っかかって、ぼろぼろに崩れ落ちたその肉片に飢えたオオサンショウウオたちが群がって、赤い水しぶきが立っていたと、第一発見者である船頭は言ったとか、言わないとか。マリャーノフが村から消えてひと月ほどが過ぎた。発見された死体は崩壊著しく、身元の確認が困難であった上に、川上の村々からは週に100人前後の蒸発者が出ているとなれば、それがマリャーノフであるなどと決めてかかることは無論できない。しかし隣村に住むラムネ売りが、死体の発見される5日前の木曜日に川上の橋の上でわたしがマリャーノフと口論しているのを目撃したと、近隣に触れ回ったものだから、自然疑いの目はわたしに向けられるようになった。わたしとソーニャとの関係はすでに村人たちの知るところであり、愛欲のもつれが殺人を呼ぶという図はいつも彼らの気に入る。この寒い季節にラムネ売りがなぜそんなところをブラブラしていたのかということには誰も疑問を抱かないのだ。連中はマリャーノフを愛したこともないくせに、わたしに制裁を下す機会を狙っている。

  昼下がりに郵便を取りに表に出て、一通の手紙の裏に差出人としてマリャーノフの名前を認めたときのわたしの狼狽えぶりを連中に見られなかったどうかとても気掛かりだ。こんな手紙は連中の罠に決まっている。そう自分に何度も言い聞かたものの、手の震えはおさまらず、封を開けるまでにえらく手間取った。

親愛なるマディガンちゃん

 どうも、ご無沙汰してます。君は今おそらく、この手紙を受け取って青ざめていることだと思います。暇を持て余している村人やソーニャが君をハメようとしているとか、ひょっとしたら怨念と化した亡霊から手紙が届いたなどと想像して、慌てふためいているのかもしれない。しかし僕にはそんなことはどうでもいい。僕はただ君にウィリアム・ウェルマンの話をしたかっただけなのだから。

 ウェルマンは君も知るように、2月29日の生まれだ。君も子供の頃、2月29日生まれの人がいつ誕生祝いをするのか不思議に思ったことがあるだろう。もちろん大抵の子の場合、寂しくならないように親が気を利かせて2月28日とか3月1日とかにして出生届を出してくれるのかもしれない。2月29日などに生まれるというのは、誕生が省略されてしまったようなものだ。4年のうち自分の誕生日がやって来ない3年を、少年ウェルマンはどのような思いで過ごしたことだろう。 きっと彼はごく小さな頃から省略の恐怖を身をもって体験していた。

  ウェルマンの省略の美学が最初に炸裂するのは、やはり何といっても『民衆の敵』のクライマックスだろう。アクションの観点から見ればクライマックスは、実際のクライマックスに先行してキャグニーが討ち入りをするシーンに相当するかもしれない(ここでも討ち入りそのものは視覚化されていない)。ここでキャグニーが目的を果たしてすんなり路上で死ねば、形の上では一番綺麗だったかもしれない。その時点で回収されていないテーマが残っていたとしても、適当にケリは付けられたはずである。しかし、映画はさらに続き、キャグニーは生き残った。生き残ったからと言って何をするわけでもない。実際のクライマックスではキャグニーには何のアクションも与えられていない。姿すら見せなくなってしまう、最後に死体となって再登場するまでは。

 『民衆の敵』を『暗黒街の顔役』と比較してみると、その対比は鮮やかである。『顔役』のポール・ムニは妹と電話係を巻き添えに城塞化したアパートに立て篭って、取り囲んだ警察に徹底抗戦し、ついに絶命する。映画はそのなりゆきを的確に映し出していたはずだ。ホークスは目まぐるしい速度で全ての歯車を回転させて物語を消尽させる。ここにはカタルシスがあると言っていいだろう。『民衆の敵』のキャグニーの死にはそれが恐ろしく欠落している。この死には内容がないのであり、それゆえ事実のみが際立ってしまうように見える。

 ウェルマン映画のクライマックスの中で死を省略しているのは、『民衆の敵』ばかりではない。今ぱっと思い出す限りでも、『G.I.ジョー』のみっちゃむ、『Night Nurse』のゴロツキとかの例がある。いずれも過程抜きに死体が登場することで、死の即物性が際立つ。一方、『ボージェスト』の導入はこれを逆手に取っているようだ。北アフリカの砂漠に孤立する要塞の銃眼にぶら下がっている数十体の兵士の死体。この強烈なイメージから、映画はフラッシュバックして物語の始点に戻るのである。ウェルマンは、三隅研次のように死に取り憑かれた監督であったのだろうか。ここで断定するのは避けよう。まだまだ見ないといけないウェルマンの映画はたくさんある。

(最近何となしに、ジェイムズ・エージーの本を開いたら、『G.I.ジョー』を高く評価している記事を発見した。エージーはシーンの移り変わりの唐突さなどに新しいスタイルを見たようだが、僕としては、それは『民衆の敵』からすでに見られるウェルマン固有のスタイルなのだ、と主張したい。)

  2月29日に生まれたことがウェルマンを省略に駆り立てたなどというのは、無論僕の妄想だ。サイレント期の傑作『つばさ』においては省略の技法はそれほど目立っていなかったように思う。それゆえ、ウェルマンが省略の技法を好むようになった理由として、歴史的な要因を二つ指摘することは強ち僕の妄想とばかり言えないだろう。ひとつは、もちろんトーキー化。ふたつ目は、ひとつ目と無関係ではないのだが、ヘイズコードの導入だ。アメリカではコードに抵触した映画を集めた『Forbidden Hollywood Collection』なるDVDボックスシリーズが発売されてるのだが、この3弾に収録されている全6作は何と全てウェルマンの監督作である(『Night Nurse』は第2弾に収録されている)。だから、ウェルマンについてもっと考えるためにはどうやらこのボックスセットを手掛かりするのがよさそうだ。

 君は、死んだ人間がどうやってDVDを見るのか、なんて怪訝に思っているのかな。ま、それは死人の領分なので、君は考えなくてもよろしい。それとも君は、ウェルマンにあやかって僕の死を省略したいとでも言うのだろうか。ああでも、僕はただ君にウィリアム・ウェルマンの話をしたかっただけだ。深く考えるな。じゃ、メリークリスマス!

マリャーノフ

 わたしは読み終わる間もなく引き裂いた手紙を尻ポケットに突っ込むと、いつしか裏山に駆け上っていた。足が吊ってつんのめり、猿の糞の堆積の中に鼻先を突っ込んだ。糞の粉を吸い込んでとめどなく咳き込んだ。そうして何分ものたうち回っている間に何だか芝居じみてきたことに白けて我に戻る。取り出した手紙にライターで火をつけると、紙はすぐに灰になって風に運ばれる。彼方には空の青を背景にして白い沢を浮き立たせた山脈が地平を限っている。若き日の円空はそこで修行を積んだのであった。鼻汁が風に飛ばされて、崖の上に金色の糸をかけた。わたしの不審な挙動は、晩には村人たちすべての知るところとなるだろう。

 


nice!(0)  コメント(0) 

Short time for Insanity 第2日 [ウィリアム・ウェルマン]

起きしなにマリャーノフは隣に眠っていたソーニャの乳房を掌で弄んだ。
—やめてください、そういう気分ではありません
—もちろんわたしもそういう気分ではない、今日はウィリアム・ウェルマンのサイレント時代の傑作『つばさ』(1927)について話をしたいから
—でも、その前にパンツをはいてください
—ダメだ、パンツはまだ全部半乾きだから
—じゃあ、わたしのパンツをはいて行ってください
—たわけ!人のはいたパンツなどはけるか
と言うと、マリャーノフはベッドから飛び起きてパンツなしで外へ飛び出して行った。
ソーニャは先ほどまではいていたパンツを手に持って後を追った。 サモワールがひっくり返って、蒸気が陋屋の中で踊った。
 
マリャーノフが神社に着いたとき、境内には野球に興じる子供たち、飴売り、プロレタリアート、聖パウロなどがいた。聖パウロがマリャーノフに近づいて言った。
—君、パンツをはかないと風邪をひくよ
しかし、マリャーノフが激高して唾を飛ばしたので聖パウロは引き下がった。
 
—わたしは恥ずかしい、まったく恥ずかしい。何が恥ずかしいかって、この歳になってようやく第1回のアカデミー賞で作品賞を受賞した映画『つばさ』を見たのだから。もちろん賞などどうでもいいのだが、このような傑作を長年見ないで過ごしてしまったことが悔やまれる。以前「ウェルマンの映画にはクライマックスが欠落している」ということを書いたのだけど、この映画を見るとその意見は完全に覆されてしまう。「見せない」監督ウェルマンは、この映画では見せることに徹底しているのだ。まず、『つばさ』は第1次世界大戦にウェルマンと同じように飛行士として参戦した二人の青年をめぐる物語であって、当然戦闘機による空中戦がたくさんある。このような場合いろんな撮り方というのがあるわけで、たとえば模型を使うとかスクリーンプロセスを使うとか、あと編集によってそれっぽくすることもできたはずだ。しかし、『つばさ』の空中戦はそのような小手先の技術全くなしに、真っ向から撮られている。見ていると感動すると同時に恐怖すら覚える。わたしが記憶する限りにおいてこれは航空映画としての最高傑作だと思う。『トップガン』とかはもちろん、全て本物の飛行機を使って撮られたというホークスの『暁の偵察』とか記憶もかなり遠のいてしまってて覚えていないのだが、これほどではなかったんじゃないか。
 
聖パウロが口を挟んだ。
—『地獄の天使』は?
—見てねえよ。だけど、『つばさ』を見たヒューズがウェルマンに監督頼んだらしいよ。断ったみたいやけど。『つばさ』を見てるとDVDの画質のせいかもしれないけど最初これスクリーン・プロセスで撮ってんじゃないのってショットがあるのね。主役がコクピット乗って前景にいたりするから。それが不意に「こいつホントに飛んどる」って分かるのね、これはヤバいね。ちゃんと操縦習わせたみたいですよ。嫌がるの無理に乗せて。でもって墜落ショットがますますヤバい。これも最初は「何かトリックあるんじゃねえの」って疑いつつ見てる。飛行機が煙吐き出しながらフワフワ落ちていく。そして、どう見ても本物の雲に機体が包まれて行くのを見るに及んで、鳥肌が立ちましたわ。監督の話だと機体に火が点かないように信号用の煙を使って撮ったようだけど、落下の運動そのものは本物なんです。 映画で飛行機見ててこれほど手に汗握ったのは、サークの『The tarnished angels』ぐらいじゃないかな。
 
子供たちは野球を続けている。飛球を追った中堅手と右翼手が衝突し、二人とも鼻血を流していた。打者走者はその間に本塁を踏んでいたが、聖パウロによってエンタイトルツーベースと判定されたため、がっかりしていた。
— さてクライマックスに話を戻すと、物語の結末を語ってしまうことになるので詳しくは差し控えておくけれど、カメラは戦場における二人の主人公の一挙手一投足を見逃すことなく追っている。そして、二つの運動が終局において激突するという点ではウェルマンは完全にグリフィスを踏襲しているといってもいい。しかし、そこにグリフィス的なカタルシスがないことにも注目していいだろう。このことは『民衆の敵』などと関連させて考えてみたので、今日のところは深く踏み込まないことにしよう。今日強調しておきたいのは、「見せない」監督ウェルマンは存分に見せることができる監督であるということである。『つばさ』のウェルマンは落下する飛行機であろうとクララ・ボウのであろうと、見せ惜しみなどしないのである。
 
このとき、セカンドを守る少年は聖パウロが「乳」という言葉に敏感に反応したのを見逃さなかったが、打球が飛んで来たのでそのことはすぐに忘れてしまった。
 
—しかし、彼がまた省略の妙手であることも『つばさ』はすでに証明している。駆け出しのゲイリー・クーパーが登場するあるシーンなどがその好例である。 ゲイリー・クーパーはこの映画ではほんのちょっとしか出てこないんやけど、強烈な印象を残しているので一見の価値があると思う。ただこんなことを長々と話すよりも、見たことがない人には少しでも映像を見てもらった方がよいかもしれない。映像の抜粋を以下に貼付けておく。念のため、音楽は借用であることを断っておく。
 
 
 —実を言うと、アメリカでは『つばさ』はいまだにDVD化されてないようだが、この国では幸運にも500円で購入することができるので紹介しておく。
 
つばさ [DVD] FRT-197

つばさ [DVD] FRT-197

  • 出版社/メーカー: ファーストトレーディング
  • メディア: DVD
 
—ところで、それまでにさしたるヒット作も撮っていないように見えるウェルマンが、なぜ莫大な予算が費やされたであろう『つばさ』の監督に抜擢されたのかは謎だ。そんな謎を撮影秘話ととも語ってくれていそうな本があるので紹介しておく。買っても読んでもいないので内容は知らないけどね。書いてるのはウェルマンの7人の子供のうちのひとり。 

The Man And His Wings: William A. Wellman And the Making of the First Best Picture

The Man And His Wings: William A. Wellman And the Making of the First Best Picture

  • 作者: William, Jr. Wellman
  • 出版社/メーカー: Praeger Pub
  • 発売日: 2006/02/28
  • メディア: ハードカバー
 
 
 
 
—また、ウェルマンが見せることに徹底していることは、サイレント映画であることに当然大いに関係しているはずなのだが、ウェルマンのサイレントでDVD化されているのは『つばさ』の他に、『The Boob』というのがワーナー本社のオフィシャルショップでオンデマンド販売されておるだけで、これも国外には発送・配信されてないようだ。他のサイトで『The Boob』を販売しておるところもあるにはあるのだが、けっこう値が張る。それから、『つばさ』の翌年に公開された『Beggars of Life』というサウンド映画があって、これがよくわからないDVDになって販売されている。この映画はルイーズ・ブルックスが主演してて、彼女のアメリカ時代の映画ではホークスの『港々に女あり』が有名なんだけど、こっちのウェルマンの映画で評価されてドイツに進出したという話も聞く。なので、この『Beggars of Life』は何とか入手したいと思っております。
 
そこへ、飴売りがやって来た。
—その前に飴を買ってくれ。1万円!1万円!
—うるせえ、ぼったくり野郎が!
マリャーノフは飴を手で振り払った。ぶち切れた飴売りが、マリャーノフを押し倒し、そのむき出しの尻を繰り返し蹴り上げると、 野球を中断した子供たちもそれに加わった。聖パウロはおくびをし、プロレタリアートは労働で疲れ切っていたので目の前の光景にはしごく無関心であった。パンツを振りかざしたソーニャはようやく鳥居の下に辿り着いたが、巻き込まれたくなかったので踵を返した。

nice!(0)  コメント(0) 

Short time for Insanity 第1日 [ウィリアム・ウェルマン]

年末年始を休みなく労働に捧げたマリャーノフは、自らへのご褒美としてウィリアム・ウェルマンの500円DVD、現在入手可能な6枚を全て買ったのであった。年代順にタイトルを列挙するなら『つばさ』、『民衆の敵』、『スタア誕生』、『ボージェスト』、『西部の王者』、『戦場』ということになる。このうち近い過去に確かに見た記憶がある『戦場』を除く5本を見た今、彼は寒風の中再びウェルマンに思いめぐらす。

マリャーノフは自身が以前ここで「ウェルマンは地味な監督である」、「ウェルマンの映画にはクライマックスが欠落している」というようなことを書いたことを覚えている。根本的なところで今日その考えが変わったわけではないのだが、しかし彼はもう少し言葉を変えて説明する必要性もまた感じている。なぜなら「地味」だと形容されるような監督に現代の少年・少女が興味をかき立てられるはずもないからである。

だから、今日は逆のテーゼから出発してみよう。ウィリアム・ウェルマンはド派手な監督である、と。マリャーノフは何も詭弁を弄しようとしているわけではない。「ワイルドビル」と渾名されるこの人物の経歴を見ればそれは一目瞭然である。

まずウィリアム・ウェルマンは、高校を放校されている。校長の禿頭の上で臭い玉を破裂させたからである。当時町の不良少年矯正委員を務めていたのは実の母親であったのだが、彼女は自分の息子だけはついに矯正できなかったいう。学校を追い出された後、彼は職を転々とする。気に入る仕事が見つからなかったのだ。そして、折しも勃発した第一次世界大戦を機に彼はフランス外人部隊に入隊、戦闘機乗りとして活躍するのである。

どれほど多くの敵機を撃墜したかは知らないが、ウェルマンは生涯後遺症を残すような大きな怪我を足に受けて帰国する。一時は空軍で教官を務めていたが、友人ダグラス・フェアバンクスの紹介でハリウッドで役者を志すことになる。しかし、役者ほど彼に馴染まない職業もなかった。撮影中後にラオール・ウォルシュの細君となる女優を引っ叩きクビになる。そして、役者から裏方に回り監督業を目指した。

監督として地歩を固めるかたわら、彼は4度の結婚を経験する。とりわけ生涯続くことになる4度目の結婚は、すでに40歳になっていたウェルマンが19歳の女優をかどわかした挙げ句のことである。インタビューの中で彼もまた「犯罪スレスレ」というような言葉で述懐していたような気がマリャーノフにはしている。とにかく、この結婚でウェルマンは19歳の女優に次々と7人の子供を孕ませるという離れ業をやってのけるのであり、戦闘機乗りとしての本領を発揮したのである。もちろん7人の子供を出産する間には19歳だった元女優のドロシーも幾らか年齢を重ねたはずである。

一片の曇りなき人生、とマリャーノフはつぶやく。ピーカンだ。全ての人類が手本とすべき人生であり、偉人伝にして全国の小学生に読んでもらいたいような人生である。マリャーノフは飛行機には極力乗りたくはないが、40歳にして19歳の女優をかどわかすという辺りが特によいと思っている。

もちろんマリャーノフは、ある監督の人生がド派手だからといってその映画が常にド派手なわけではないことは承知している。しかし、この人生はどこかしらウェルマン映画の語り口に通じるものがあるような気もするのである。ウェルマンには『Short time for insanity』なる自伝が存在する(マリャーノフはこの題名を聞いて狂喜した。『Harpo speaks !』に匹敵する!これはいずれ購入しておかなければいけないと彼は思う)のだが、マリャーノフが参考にしたWikiの記事なども監督自身の口によって語られた人生を基にして書かれているせいかもしれない。

さて、ここでウェルマンの映画そのものに話を移行しつつ、『つばさ』がどれほど傑作であるかマリャーノフは少年・少女に訴えたかったのだが、あまりに長い記事は嫌がれるだろうからと、彼は日を改めて書くことにした。
そして、マリャーノフはウェルマンのDVDなどを買うためのお金を手に入れるべく、明日もアルバイト探しに出かけるのだがしかし、彼はウェルマンのようには振る舞わないだろう。
nice!(0)  コメント(0) 

蛮野のビル [ウィリアム・ウェルマン]

前にも書いた気がするが、こちらに帰って来てから映画館にはほとんど足を運んでいない。環境が環境だけにどうしようもないのだが、つい先日名古屋で『マクロスF』劇場版を見た他は上京時に見た2本きりである。さすがにいくらか禁断症状が出て来たのか、本来小さな画面で映画を見ることなど好まない自分であるが、あちらにいたときに購入してまだ見ていないDVDが多く残っているので、最近はそんなのを見ている。中でもウィリアム・ウェルマンの監督作で国内版が出ていないものを中心に少し揃えていたのを、ようやく見終えた。

ウェルマンと言うと、ラオール・ウォルシュと並んでキャリアの長い職人監督として評価されており、イーストウッドも尊敬する監督の一人として常々名前を挙げる監督でもあるのだが、日本ではウォルシュがフォードとかホークスなんかに次いで「作家」として扱われることも多い一方で、あまり汲み上げられてこなかった印象がある。とはいえ、その代表作は500円DVDなんかでも多く見ることができるので、特に幻の監督というわけでもない。要はその扱いは極めて地味であり、それはその作風がやはり地味であることにも一因はあると思う。では、なぜ地味なのか?

今年の1月に向こうでやってたタヴェルニエによるアメリカ映画特集でウェルマンの映画が2本ばかりプログラムされており、そのときタヴェルニエが言っていたのは「ウェルマンは見せない」ということだった。そのとき特に問題にしていたのは『Night Nurse』の中でバーバラ・スタンウィックが扮する看護婦が酔っぱらいのおっさんをぶん殴るアクションをカメラに収めないということであったのだが、ウェルマンの映画をもう少し数見た今日それを敷衍して考えてみることができるかもしれない。すなわち、ウェルマンの映画にはクライマックスが欠落している、と。

最近見た映画を例に挙げると、まず『Nothing Sacred』(日本では『無責任時代』のタイトルでテレビ放映)。1937年製作のジャーナリズムを舞台にしたコメディで、ベン・ヘクト(『ヒズガールフライデー』の人)が脚本を担当している。ちなみに製作はデビッド・O・セルズニック、全編テクニカラーで撮影された映画であり、当然『風と共に去りぬ』にも先行している(ついでに言うと、ウェルマンは前作『スター誕生』で既にテクニカラーを手がけている。だから、この時期は職人というよりかなり売れっ子監督として認知されてたのだと思う)。フレデリック・マーチ演ずる新聞記者が余命わずかと診断されたキャロル・ロンバードを取材して一躍時の人にするのだが、実は余命わずかというのは医者の誤診であり、それを知りながらもキャロル・ロンバードと医者が田舎町からニューヨークに遊びに行きたいばかりに病人の振りをするという話。結局化けの皮が剥がれて、新聞社ともどもそれを糊塗するために窮余の一策を講じる。さて、これからその一策を廻るてんやわんやで物語もいよいよ終局だなというところで、結果を知らせる新聞の見出し記事が大写しなって、終わり。最後はその後の主人公たちの顛末を見せる数ショットがあるばかり。

もう一つの例は、『G.I.ジョー』。こちらは帰国してから購入したDVDである。第二次大戦中の北アフリカ・イタリア戦線を転戦するロバート・ミッチャム率いる小隊の話。実在の従軍記者が書いたルポを映画化したもので、全体の起承転結となるような物語があるわけでなく、エピソードの積み重ねで展開する。古い映画なのでネタバレを承知で以下に書くのであるが、この映画は終局に生来するロバート・ミッチャムの死を一切描写しない。一応は主人公に相当する人物がいきなり死体になって登場し、映画は終わってしまうのである。もちろんこれはノンフィクションであって、原作者である従軍記者が隊長の死に直面することがなかったから描写しようがないと言えばそれまでなのであるが、その欠落がいかにもウェルマンの作風にかなっているように見えた。(関係ないが、この映画のいくつかのシークエンスは『父親たちの星条旗』を想起させた。それから、1945年製作の映画なのだが、まだ終戦前に製作されていると考えられるのに、反戦的な雰囲気を持っているのは興味深い。ジョン・フォードの『コレヒドール戦記』と合わせて考えてみるのも面白いかもしれない)。

記憶に残る他の例を挙げてみよう。『ミスティック・リバー』にその影を落としている『牛泥棒』も明らかにもう一山あってよいところを、リンチ被害にあった男の遺書を読んで映画はあっさり終わってしまう。西部劇であるにもかかわらず、主人公のヘンリー・フォンダの銃は結局火を噴かずじまいだった(『ダーティハリー』の名台詞はそのときの苦々しさを代弁しているのだろうか)。初めて見たときはこれは何か製作上の事情でカットされているシーンがあるのではと考えたものだったが、今思い返すとそれがウェルマンの作風だったのかもしれない。つまり、もしウェルマンが『ハイ・シエラ』を撮っていたら、山に逃げ込んだ後はせいぜい銃声が遠くからパンパン響く程度でボギーは唐突に死んでいただろうし、もし『白熱』を撮っていたら爆発シーンは省略して新聞記事に差し替えられていたかもしれない。もしウェルマンが『高麗葬』を撮っていたら、老母を背に山に登るシーンと10人切りのシーンは巫女婆の視点に切り替わってしまい、描写されなかったのかもしれない(だからといって、巫女婆の死そのものは避け得なかったはずだ。あれは、どう考えてもヤっておかないといけない)。

これは飽くまで自分の妄想である。500円DVDを始めまだ見ていないものも多くあり、ここで書いてることが当てはまらない監督作もあるかもしれない。それにこんなことを書くと、ウェルマンは面白くないんじゃないのかと誤解を招いているものと思う。そうではない。ウェルマンは面白い。ただその面白さというのは、油でギトギトになったラーメンばかりを食しているとわからないような面白さなのであり、ひじき昆布と梅干しで茶漬けを食べるのが至福であると感じられるのにも似ている。自分も二十歳のときにウェルマンを見ていたら(実際に数本は見ていたかもしれないが)、これほどに興味を持つことはなかったはずであり、驕慢と思われようが一通りは映画を見たような気になっている今日であるからこそ楽しめている気もする。

本来ならウェルマンの面白さをポジティブに主張したいものだし、例えば細部の面白さなんかを主張しながらそうするべきだったのかもしれないが、これ以上話を先に進めるにはまだ見ないといけない映画もあるだろうし、そもそもいつものように記事が長くなってしまったのでそろそろやめにする。ただ、何となく漠然と頭に浮かんでいるのは、クライマックスの不在に伴うウェルマンにおける「インモラル」の問題(何となしにそう呼んでみる)であり、その辺を詰めて行くとイーストウッドにまで開けていきそうな気もしてきたのだが、別にそんな剣呑な話をしようと思ってウェルマンを見ているわけではない。

nice!(0)  コメント(0) 
ウィリアム・ウェルマン ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。